狸寝入り
夏の風にゆうらりと前髪をくすぐられて、目が覚めた。目は瞑っているから、傍目にはまだ寝ているように見えるだろう。意識したわけでもないのに澄まされた耳に、こぽこぽ、料理番組の手本のような鍋の音が聞こえた。
夕飯の時間か。
オレが寝ている座敷から隔てなしで続いた、台所から聞きなれた話声がする。
「辰羅川くん、この味どうすかね?」
「ふむ……もう少し塩を加えたらいかがでしょうか?」
「やっぱ、ちょっと塩味が足りないっすよね」
食べないでも、匂いがなくてもわかる。今日も飯は男子高校生作とは思えないほど旨いんだろう。三年生だけでこの合宿に来てからは毎日毎日旨いもん食いすぎて、オレは家に帰れそうにない。
オレの家出の原因を今なお作り続ける二人は、オレが起きていることにも気づかずに、楽しそうに台所に立っている。
昨日の夕飯の味やら、笑う二人の様子やらが浮かぶ安らかな暗闇の中で、台所の音に聞き耳を立てていると畳みの微かな軋みと、昔よりは低くなった兎丸の声が耳に入った。
「あー、兄ちゃんまだ寝てるよぉ?」
誰かに話しかけたところからすると、司馬が傍にいるのだろう。近づいてきたのか、また畳が軋んだ。起きちゃあいるが、返事するのが面倒くさい。
狸を決め込み続けると、きゃらきゃらと笑い声が降ってきた。
「兄ちゃーん、ご飯だよー? 起きないのー?」
気づかれているような気がして、居心地は悪いが今から起きるわけにもいかない。記憶の中の楽しそうな兎丸の笑顔と、今聞こえる声を重ねながらオレは目を閉じ続けた。
「起きないよ葵。よっぽど寝てるんだね」
司馬は、きっと困ったように微笑ったんだろう。しょうがないね、と言いつつ兎丸の笑い声が遠のく。
すぐ傍の縁側に、二人が座った気配がする。兎丸が何を気に入ったか履き続けている下駄が、からんと音を立てた。
段々遠のいていく、下駄とビーサンの足音を聞きながら、オレはまだまどろんでいた。
もうそろそろ出来上がるんだろう。 台所から流れてくるいい匂いは、どんどん種類を増してくる。
魚の匂い……か?
ふよふよと、醤油の匂いがあたりに溜まる。
オレの腹時計も、鳴る準備が万端といったところだ。
一度外へ意識が向くと、寝た振りがひどく億劫なものに思えてくる。けれど今ここで起きてしまうのは、食べ物に釣られたようで(事実その通りだけど)、決まりが悪い。
子津、早く起こしに来てくんねーかな。
起こしてもらう、という言葉を思い浮かべると、気持ちがほかほかする気がする。きっとそれは、オレの中でその言葉に悪い思い出がないからなのだろう。
子津のうちに泊まった翌日を思い出す。オレを呼ぶ、柔らかな声と、笑顔。何を言っても、楽しそうに笑う子津。
起こされるのを待って、オレはわざと呼吸を深くした。夏の日差しはすこしだけ赤みを帯びて、瞼の裏に斑点をつける。蝉の声がする。みんみんみん、兎丸たちの声が、風にのって柔らかに聞こえた。
箸を揃える音が、もう飯の時間はすぐそこだと教えてくれた。
「そろそろ天国くん起こさなくちゃっすよね」
「ああ、そういえばそうですね。また寝てるんですか猿野くんは」
「昨日遅かったみたいっすから」
お、来るかな。
「じゃあ、起こしましょうか。犬飼くーん」
と、たっつんの声が少し大きくなった。
……犬、そこにいたのか?
「とりあえず……なんだ」
たぶん、台所の傍の椅子にでも座っていたのだろう。犬飼の返事は早かった。
……料理の番でも変わってもらうんだよなあ?
「猿野くんを、起こしてくださいませんか?」
たっつんの声は、悪戯した子供を諭すみたいに真っ直ぐだった。
「とりあえず……なんでオレが」
そ、そうだ、頑張れ犬!
犬飼に起こされようものなら足蹴は間違いない。ここまでの良い気分が台無しだ。
「私どもには料理がありますし、ほかの人は傍にいません。それとも犬飼くん代わりに夕飯を作って頂けますか?」
「……」
バカ、ヘタレ、料理ぐらいしやがれ! と自分を棚に上げて騒ぐオレの心中を知ってか知らずか、沈黙は犬飼が了承する方向へ進む。ゆるやかだった夏の暑さが、不快を増したような気がして、額の汗をこっそり拭った。沈黙は長く、それに乗ってオレの爽やかな目覚めが遠のいていく。
発熱でもしたようなだるさを、心地よく冷やすような音が、響いた。
「僕が起こしてくるっすよ」
笑いを含んだ、子津の声。ふうわりと、やさしい夕暮れが姿を戻す。汗ばむオレの腕を、蚊取り線香の匂いを乗せた風が撫でる。兎丸たちが虫を捕まえたと喜ぶ声が、幸せの象徴みたいに鼓膜をくすぐった。
「犬飼くん、悪いんすけど枝豆の様子見ててもらえるっすか?」
「お、おう」
お玉と鍋が金属音を立てたようだった。水音がする。使っていたのは子津だったのだろう、涼しげな音が止むのと同時に、きしり、と畳が人の重さに少し沈んだ。重さは近づいてくる。ふわふわと、頭を揺らされる。膝をついたのかもしれない、耳の横に暖かな何かがあった。オレより少しだけ大きく、ごつごつした手が肩にかかる。その手がつけたボタンだとか、切ったニンジンだとかが、暗闇に浮かんで消える。
「天国くん、ご飯出来るっすよ。起きてくださいっす」
畳みの振動とはまた違う調子で、揺らされた。もう一度、「天国くん」と子津が囁く。もう目を開けようかなとわざとらしく声をあげたオレに、子津が思いっきり小さな声で耳打ちする。
「……狸寝入りは終わりっすよ」
また、笑い混じり。
ご飯できたあー? と、兎丸たちの声が近づいてくる。
なんだ、バレてたのかよ。
バツの悪さに苦笑いしながら、オレはゆっくりと目を開けた。