月と自転車とジャングルジム
久々に、何だか目が冴えていた。
昼過ぎまで寝ていたからだ。
眠る努力を放棄して、部屋の窓から見上げた月があまりにも丸かった。
だから、
寝巻き代わりにしているジャージ上に上着だけ羽織って、音を立てないように玄関のある一階へ下りる。
電気もつけずに自分の靴を探し当てるのはひどく面倒くさい作業だったけれど、履き古されたスニーカーは特徴的で間違うことはなかった。どうしても音の鳴る玄関を、ゆっくりゆっくり開ける。
夜気が布団の中で暖まった体に心地いい。胸にいっぱいに吸い込んで、 ガレージの下においてある、自転車のスタンドを、蹴り上げた。
月見日和だ。
行く宛などなかったけれど、浮かんできた顔は一つだけだった。
自転車で、子津ん家には行ったことがなかった。
チャリ通のオレより学校に近い、大きな家。学校まで一度行けば、迷子だけは免れるだろうがそんなのつまらない。
日々冒険、挑戦だ。
自分の決意を胸に、なんとなくの方向に走り続けて景色が見知らぬ姿を見せたのは、裸足に直接履いたスニーカーでペダルを踏み出して、30分もしたころだった。方向だけを宛にして走っていたら線路と雑木林に挟まれた道に入り込んでいた。目指す方向に外灯が続くので、引き返すことはしない。
ざわざわと、おどかすように木々が不気味に鳴る。子供の頃の絵本を思い出した。お化けの森で、幹に顔を持つ木。いつまで経っても、子供みたいに馬鹿げたことをする俺のことを、嘲笑っているのかもしれない。
その道を抜けると、見たこともない大通りに出ていた。いくら月が明るく、道路の名前が書いてあるだろう看板が読めてももどこへ続くものかいっこうに思い出せない。これは、完璧迷ったみたいだ。
苦い顔だけしつつも、実はそんなに困っちゃいない。
世の中には、携帯という最終兵器がある。そして、それ一つで迎えにきてくれるような優しいやつも。
気恥ずかしくて、たどってきた詳しい道筋は書かなかった。優しいやつだけど眠りってやつには人は無力なもんなので、迎えどころか返事が来るかどうかもわからない。明日見られるなんて最悪だ。切羽詰った感じがでないように。
送信の音にあわせて、ちらちらと送信画像にしたばかりの紙飛行機が飛んでいく。本当にメールが紙飛行機になって、ぐーすか寝ているかもしれないあいつを起こしてくれりゃあいいのに。
暗闇に慣れて辺りが見えてくると、横に看板があるのがわかった。俺が背にしていたのは、大きなマンションの中に申し訳程度にある、公園の柵のようだった。公園の名前はやっぱり知らない地名を示している。ぽつん、と一つだけ外灯がついていて、月の明るさもあって、公園の少ない遊具は簡単に見分けられた。
ブランコ、すべり台に平均台。そして、ジャングルジム。
その上に、まるで遊具の王様みたいに浮かぶ月は、まだまん丸だ。
月が、少し傾いたかなとわかるころ、シャーッとタイヤを滑らせる音が、聞こえてきた。それは段々近づいてくる。期待に、俺は息すら止めて公園の入り口に面している道路を見た。すぐ傍だ。すごい勢いで走っていた自転車は、キキーッとけたたましい音を立てて前のめりにすらなりながら、止まった。
予想的中。
「猿野くん」
近所に配慮したのか子津は声を抑えて、それでも遠くの俺に呼びかけつつ駆けてきた。
オレはわざと声をあげて笑う。開きっぱなしだった携帯は閉じて、ポケットにねじこんだ。
「おせーよ子津」
「遅いって、あれだけのメールでここまで来れたことを褒めてほしいっすよ!」
息だけで喋っても結構響くことを、子津は知っているんだろうか。近所迷惑を気にしているようでしていないのか、跳ね返る音を意にも介せず、子津は真下まできた。
そう、俺が登っているジャングルジムの真下。
「早く降りてきてくださいっす。帰りましょう?」
眉を下げた、子津っちゅーの訴えを聞こえなかった振りをして、俺は手招きする。けれど
「登らないっすよ」
と子津は両断して、心底困ったように腰に手を当てた。
「折角月が綺麗なのになー」
来ないのが残念で、空を見上げる。こんなに月が明るいのに子津といえば、月見なら、家に帰ってからいくらでも付き合うから、と、降りることを促すばかりだ。
ま、降りてやってもいいか。
「子津っちゅー!アタイを受け止めてん♪」
鬘を着けて、口紅をぞんざいに塗って飛び降りる。子津が目を見開いたのが、コマ送りに近づいてくる。あれは効果じゃなかったのか。
ドサッ
如何に子供用遊具の上からでも、これが結構高かったし痛かった。俺は眉を顰めながら、下敷きになった子津を見る。怪我はないようだ。
「猿野くん、危ないじゃないっすかっ」
首を上げて、後頭部を抑えた子津が言う。
大丈夫だったじゃねえかと本気で言うと、返ってきたのは重苦しいため息だった。けれど怒るようなことはない。オレはそれが嬉しくて、満面の笑みで子津の上からどく。
「……ともかく、帰ろうっす」
子津が立ち上がって、砂を払って、(当然のように俺のも)手を差し出してきた。「寝巻きじゃないっすか」と上げられた声は、無視。
手を掴んで、俺も立ち上がる。
「今日お前んち泊まっていい?」
「そもそも、今からじゃ帰せないっす。出てくるとき母さんに見つかっちゃったんで、多分布団も敷いてあるっすよ」
「やーい、ドジ」
「うちは古いから軋みで音が立っちゃうんすよ」
拗ねたように言い訳する子津を指差してからかいながら、自転車までの短い距離を手を繋いだまま歩いた。