モクジ

  嫌いの置き所  

「ネズッチューのバーカ!」

 と、いつものように兄ちゃんが明美姉ちゃんになって、子津くんの前から逃げるように走り出す。僕からは背中しか見えなかったけれど、子津くんはいつも通りの困ったような顔で苦笑いしているはずだ。
 それはいつものことで、言ってしまえば日常茶飯事。
 この後5分もすれば兄ちゃんは子津くんの隣でまた笑っているのだろう。
 呆れた僕は踵を返す。と、兄ちゃんが走って帰ってくるのが見えて立ち止まった。
 三つあみが遠心力に、びゅん、と音を立てた(ような気がする。さすがに聞こえなかった)。
 いつもなら、校庭の端の端、視界から見えなくなるまであっという間に走り去ってしまうのに。何故だか伺い見るように首を捻ったあと、兄ちゃんの格好に素早く戻り、走って戻ってきた。校庭の真ん中でぎゅうっと子津くんに抱きついて(ワオ!)、何事かを言っている。
 ちらり、と見えた子津くんの顔はさっきよりもずっと困ったように笑っていた。
 でも嬉しそうにそのほっぺたがちょっと赤くなっている。
 何だったんだろう。
 このいつもじゃない出来事は少しだけ、僕の記憶に引っかかった。


 そんなことをひっかけてぼうっとしていたせいか、着替えるのが随分遅れてしまった。既に制服姿の司馬くんとはさっきすれ違って、校門のところで待っててくれるみたいだ。あんまり待たせちゃいけないと、僕はそこからまた加速した。
 古臭くて重い部室のドアを開けると兄ちゃんが暇そうにベンチに座っていた。子津くんはいない。確か、昨日辰羅川くんが書いていたはずだから今日は子津くんが部日誌当番だったはずだ。
 職員室に、部日誌を取りに行っているのかもしれない。
 お誂えむきに他には誰もいなくて、僕は急いで着替えつつ昼間の出来事を兄ちゃんに尋ねてみることにした。
「んあ?」
 初め兄ちゃんは変な声を上げて、顎に手をあて懸命に思い出そうとしているようだった。覚えているような、大した事じゃなかったのかな。
「あーあれか」
 しばらくして、いい加減僕も忘れかけたところでそーいえば、と兄ちゃんが呟く。
「どうしたの?」
 Yシャツのボタンを留めながらまた尋ねる。あ、掛け間違えた。
「あいつさー、時々勘違いするんだよ」
 兄ちゃんに似つかわしくない抽象的な言い方に、僕は意味を図りかねて、首を傾げた。
「どういうこと?」
「だからさ、冗談で『お前なんか嫌いだ!』って言ったりするだろ? 普段はいいんだよ、ちゃんと子津だって冗談を冗談で受け止めってっから」
 うんうん、と一人で兄ちゃんが頷いた。僕にはまだ、意味がわからない。
「でもよ、時々落ち込んでたりなんだりのときにそれいっちまうと、頭ではわかってても、どうも本気で受け止めちまう時があるんだよな。今日がソレ」
 だから、嘘よ〜って明美が教えてあげたの、と兄ちゃんが撓る。
 ツッコミもしないで、僕もさっきの兄ちゃんみたいにうなずいた。ちょっと、わかるかも。落ち込んでて、何もかもヤな方向に見えちゃうときってあるから。
 納得した僕が、当たり障りの無い相槌を打とうとしたとき、子津くんが帰ってきた。僕ももう、荷物を鞄につめるだけの状態でそこで会話は打ち切られる。校門の司馬くんのことを思って、急いで鞄のファスナーをしめるとタイミングを計ったように、兄ちゃんが「じゃあな」と言って来た。子津くんも続いて、僕も荷物を担ぎながら「また明日ね」と返事をする。
 早く、司馬くんの顔が見たい。
モクジ