全て君が
猿野くんが項垂れてベンチに戻ってきて、まず虎鉄先輩が小突く。次に猪里先輩が出迎えて「よくやったっちゃ」と笑う。それでも猿野くんは泣きそうで、その顔にいつもの笑みが浮かぶことはない。
敬遠。
もう珍しくも無くなったそれ。一年の時の武軍に始まり、少しずつ大打者と認められてきた猿野くんはあからさまなそれに、何度も打ち勝ってきた。時には挑発して、時には奇抜な手段で。
それが今回だけは、どうしても駄目だった。
足掻いた猿野くんに三振と叫ぶ主審の声は遠いどこか知らない国から聞こえてきたような錯覚がした。
けれど、これは9回表。そう、先攻。そしてここまで同点。
猿野くんがもしも空にアーチを描いたならばもう一点入るはずだった。もう、絶対に失点は許されない。ベンチに緊張が走る。ここまで投げてきた犬飼くんと、先発投手の鹿目先輩が僕を見た。
監督が呟くように。「――子津」
他の誰でもない、僕の名前。短く返事をすると、見据えられる。
やれるな。
無言のうちに尋ねられる。僕が立っているすぐ、傍のベンチに猿野くんが座っていた。見上げている。僕は安心してほしくて笑ってみせる。僕に任せて。独りよがりなセリフを、喉の奥に飲み込んで。
「はい」
よし行け。禁煙のベンチで監督がニヤリと笑う。
みんなの視線が僕に集まる。黒豹さんがやるで、と呟いてミットを手に取った。やります、と僕は答える。
司馬くんが微笑む。ぽんぽんと自分のグローブを撫でるように叩いて立ち上がる。
「ほら兄ちゃん行くよ!」
兎丸くんも跳ねるように立ち上がって、猿野くんの頭の上にグローブを置く。それに答えるように、猿野くんが緩慢に立ち上がった。僕の横を通り過ぎる瞬間、「次はやるから」と小さな声で呟かれた。
猿野くんの言う次、はいつのことだろう。守備のことだろうか。
ならその言葉は、猿野くんまで回るかもしれない延長の攻撃まで、とっていてもらいたいと思う。
僕はグラウンドに出る途中、周りに聞こえないように、黒豹さんに耳打ちした。
「三者三振で」
ひゅうっと口笛の音が耳を掠める。
「あんさん、言うようになったなァ」
黒豹さんが人の悪い笑みを浮かべた。
「うおっしゃ、やったるで!」
黒豹さんの大声が上がって、青い空を射抜くようにナインの右手も挙がる。
バッターが構えて、僕はただ一点キャッチャーミットを見据える。一年前の、あの日。入部試験。猿野くんがいなくちゃ僕は野球部に入ることすら出来なかった。もし、入れたとしても、猿野くんがいなかったらきっと、あの部内対抗でくじけていた。
この日はなかった。
手の中のボールを握り締める、この感触も。散々練習をした、この球も。
全ては無かった。
猿野くん、君がいなくちゃ何も無かった。きっと、三塁で、半ば泣きそうな顔で君は僕の背中を見ているのだろう。頼りない、と思っているだろうか。それとも信じていてくれるだろうか。
今きみのために、僕のためにそして『僕ら』のために投げる。
君にもらったこの瞬間に、君に貰ったこの力を。
どうか泣きそうな顔をしないでいて。全て君が。
黒豹さんが合図をする。まずは見せ球。今は二番。順当に回れば最後は四番。悪くないドラマじゃないか。
僕は腕を引いて振りかぶって――。