最後の線
じょそうをつけて、たくさんうしろにさがってはしって
さいごのせんをとびこえる
とびこえる
いってはいけないとこへいくために
さいごのせんをとびこえる
いつもの帰り道、唐突に猿野くんが不満そうに「それ」を口にした。
「なんでさ、いつまでたっても『猿野くん』のわけ?」
僕はわざとらしく、曖昧に笑う。大根役者のような自分が想像できて、心中ため息が堪えきれない。
「猿野くんだって『子津』じゃないっすか」
「『子津』じゃなくて『ネズッチュー』!あだ名はイーんだよ。初対面からお前はオレのマブ」
「何すか、それ」
だから、と猿野くんが言い募った。
「だからお前もあだ名とかで呼べよ。『天国』でも構わねぇからよ。ほれ、この猿野様にニック・ネームをつける権利をやろう」
かかかと瞬時に殿様の格好をして猿野くんが高笑いをする。
「バカ殿さま?!」とともかくも驚いて、僕は話を戻した。
「遠慮がしてる、とかそういうわけじゃないんすけど、あんまし慣れないんすよ名前呼びとかって」
自分でも言い訳がましいなあ、と思う。猿野くんは不満そうに鼻を鳴らして、ともかくその時話はそれで終った。
翌日、また部活で猿野くんが騒いでいる。
僕はピッチングの練習をする振りをしながら、横目でそれを見ていた。猿野くんを兎丸くんが『兄ちゃん』と呼び、沢松くんが『天国』と言葉に乗せるその光景を。
羨ましくない、といえば当然嘘だ。そのくらいは自覚している。
すごく、羨ましい。
『自分だけの呼び名』を持つことは、まるで、特別であるように見える。僕なんかが手の届かないところにいるように見える。
もちろん、実際はそんなに大層なものではないのだろう、たぶん。
そんなに羨ましいのなら猿野くんにも許可をもらっていることだし、名前呼びでもなんでもすればいい。そう、普通なら。彼に向ける視線が、疚しいものでないと自分に言い切れるなら、いくらだって。
言えない。
だから呼ばない。
呼べない。
呼んでしまったら、最後の線を飛び越えてしまう。臨界点を突破して、暴走しそうな言葉。乱暴な気持ちをなだめすかして臆病な僕は助走をつけることもせず、線の一歩手前に立ち尽くす。『あ』の言葉をためらって『猿野くん』と口にする。
立ち尽くす。この思いが溢れ出ないように。
「ネズッチュー!」
それでも、『特別』な人たちにに囲まれた猿野くんが笑って、手を振ってくれたので
「猿野くん!」
僕も呼び返す。
最後の線を、なぞるように思いを込めて。