※子津の性格が悪いです、お気をつけて
嫌われた男
それに初めて気付いたのは、いつだったのだろう。
ああ、思い出した。
華武戦の翌日、部活が終わってすれ違った校庭脇のことだった。
すでに着替え終わっていたオレと辰に対して、対して向かい側から来る猿とソイツは、遅れた猿を待っていたのかなんなのかまだ着替えてもいなかった。
「おっ、犬コロ! お散歩の途中か何かでちゅかー」
「とりあえず、ブッコロ」
いつものように、オレと猿が言い争いを始めて辰に止められた。
猿が辰にオレについての文句を言い、それに辰も苦笑していたとき。
ふと、見回した景色の中で。
猿と一緒に居た――、子津が、酷く見覚えのある目でこちらを見ていた。
それは一瞬で消えていつもの人の良さそうな光を称えたので、オレは引っかかったそれをすぐに忘れてしまったのだ。
次は、部室裏だった。
猿や兎丸、そして司馬と辰とで一人練習している子津の激励に行くことになった。
前触れもなく訪れた客に子津は、驚いて、またとても喜んでいた。
けれどオレはまさか肩を叩いてよくやってるな、と言えるような付き合いでもなくオレは部室の古い壁に寄りかかって、いつものように猿が馬鹿なことを言っているのを揶揄した。
それがいつものように喧嘩へと発展したとき。
子津が、こちらを見た。
あの目だった。温度の無い視線。
前と同じようにそれは一瞬で消え、子津は「喧嘩は駄目っすよ」と苦笑して、キレて暴れ始めた猿をなだめていた。
それはいつもの、困ったような笑顔だった。
それでもどこか楽しそうな笑顔だった、のに。
その視線のあとでは、その仕草全てが薄ら寒く見えた。
その後、何度かその瞳を見た。
けれどやはりそれはいつも一瞬で消え、オレはいつもその意味を知ることは出来なかったのだ。
そして、この薄暗い教室でオレはその目の意味を知る。
突然の話になるが、オレは英語がとんでもなく苦手だ。
なんであんな訳のわからない言葉を喋れるのか、喋ろうと思えるのか不思議でならない。
そのためあまりの成績の悪さに、部活に行こうと教室を出た途端英語教師に掴まってしまい強制的に補習のプリントをやらされることとなった。
もちろん、監視付。
自業自得だと辰は付き合ってはくれなかったし、オレは普段大勢の人間がいる自分の教室で一人座りながら延々意味不明な記号と教師の解説付で戦っていた。
随分、時間がかかったように思える。
授業終了はいつもと同じぐらいだったはずなのに、やっと一枚目のプリントを片付けると長いはずの夏の日は既にその身を半分大地に沈め、隠していた。
さすがの教師も、これほど時間がかかるとは思っていなかったらしい。
腕時計を見てそわそわするところを見ると、何か用事があるようだ。
気にせず用事を果たしていい、と提案すると逃げるだろうと却下された。
なんでわかったんだろう。
心の中でブツクサ言いながら、投げ出していたシャーペンを握って、プリントに目を向けなおした。
もう何度目になるのか、不定詞の意味を尋ねようとしたとき廊下から足音がした。
部室棟から遠く離れたこの廊下を文化部が使っているわけでもないだろうし、大方運動部の誰かが忘れ物でもしたのだろう。
なんとなく気になって、空きっぱなしのドアの向こうの廊下を眺めていると、通りがかったのは子津だった。
子津は気付かずに通り過ぎようとした、のだが。
何故か教師が口を開いた。
「子津」
子津が、振り向いた。
「あれ、先生。犬飼くんも何やってるんすか?」
教師は立ち上がって、きょとんと立ち止まっている子津の前に手を合わせて頭を下げる。
「悪いっ、お前犬飼を少し見てやってくれないか? こいつ英語が壊滅的なんだが、目を離すと逃げちまってな。お前なら解説も出来るだろう。30分ほどでおわると思うから、頼まれてくれないか」
「いいっすよ」
「じゃ、頼む!」
余程切羽詰っていたのか、教師はそれだけ言うとバタバタと走り去る。
後にはオレと子津が残されて、教師の様子に苦笑した子津はオレの目の前、つまりさっきまで教師が座っていた椅子に腰を降ろした。
手持ち無沙汰なのか、横においてある、オレがこれから片付けなければならないプリントをパラパラめくっている。
オレも視線を落としてプリントと睨み合い、互いの視線が絡むことなく時は過ぎた。
暫し経ち、ふと消しゴムをどこへやったかと顔を上げる。
見回した視線の途中で子津がこちらを見ていた。……あの目だった。
色々なことが、いつもと同じではなかった。
それは部活中の校庭での出来事ではない上、一瞬で消えるような生易しいものではなかったし、何故か周りは静かだった。
間抜けなことに、オレは一瞬よりも長くその視線のもとにさらされたことでやっと意味がわかったのだ。
嫌悪。
何かに似ているはずだ。
少し前に鏡を覗けば、オレはいつでもこれと似たような目に会うことが出来たのだから。
ただ、嫌悪や憎悪と形容される以外の粘りつくような光の正体は、オレが知るところではなかった。
「とりあえず、」
いつもと一変して、無表情な子津を前に沈黙を破ったのはオレだった。
そう、沈黙。
何故静けさにこれほど違和感を覚えるのだろう?
決して、オレは騒がしさを好みはしない。
そういうのは、例えば猿とか兎丸とかが似合いだ。
なのに、どうして、こんなに。
「お前は、オレが嫌いか」
疑問はともかくも頭の隅へやり、オレは言葉を続けた。
また、沈黙が落ちる。
オレが最後にいった「か」の音の余韻の空気が完全に消え去る前に、子津が表情を歪ませた。
笑っていた。
見たことが無い笑いだった。笑ってるのに、ただただ冷たかった。
「やっと気付いたんすか……というか今まで気付かないほうが、どうかしてるっすよ」
突然のことに、オレは固まる。
すんなり肯定されるとは思っていなかったし、こんなあからさまに敵意をぶつけられるのは初めてだった。
「ずっと知ってるもんだとばかり、思ってたっす」
子津が言いながらシャーペンを握るオレの左手に、目を落とした。
「野球に向いたその体格が嫌いっす。僕がいくら努力しても届かない腕を平然と持っているところが嫌いっす。なのにいつまでも過去に縛られて、自分を哀れんでいるところが大嫌いっす」
息もつかず、子津は続けた。初めの二つは聞き流し、最後の一言に漸く怒りを覚えた。
「とりあえず、お前に何がわか」
「君のことなんてわかりたくもないっすね。それが嫌いっていうことなんすよ。そんなこともわかんないんすよね。そういう鈍感なところも大嫌いっす」
畳み掛けるような言葉に、何も言い返せない。
ただ、最後の言葉はこういうところを指していたのだろうか、とぼんやり思った。
「この左手が、」
シャーペンが奪い取られて、左手の上に振り降ろされる寸でのところで止められる。
思わず左手に力が入り、掌に爪が食い込んだ。
指先が冷たい。
緊張の証拠だ。
人前に出て話すときのように、末端から血が引いていく。
「壊れてしまえばいいといつも思っているぐらいに、嫌いっす」
身を強張らせているオレを鼻で笑って、子津がシャーペンを机の上に転がした。
カランとシャーペンの音が子津の瞳と同じくらい、冷ややかに響いた。
「馬鹿じゃないっすか? シャーペンくらいで左手を壊すなんて、出来るわけないじゃないっすか。もうわかると思うっすけどそういう頭の悪いところも嫌いっすよ」
言うだけ言うと、子津は立ち上がった。
椅子が床を擦る音。
子津はオレに嫌悪を抱いているという事実を知らせたかったのだろうか。
……――何か、おかしくはないか?
何故、今ここで?
誰も居ない教室。本来なら部活中の夕暮れ。
いつも見せる瞳の、嫌悪だけではない、感情。静けさの違和感。
あ、――静けさ?
「待て」
思いついた瞬間、自然とオレの口は開いていた。
「……何すか?」
尾を踏まれた獣のように、子津の瞳が不機嫌をにじませる。
「お前がオレを嫌いな理由はそれだけじゃねえだろ」
首だけ振り返ったままの形で、子津は一度口を引き結んだ。
「当たり前じゃないすか。嫌いな人間なんてそれ以上、いくらでも嫌いになれるんすよ。他の人なら長所に見える場所でも短所にしか思えないんすから」
そうじゃない。やっとわかった、静けさの違和感。
「猿だろ」
こいつがこの瞳を見せるのは、いつもオレと猿が騒いでいるときだったのだ。
周りが静かなはずが無い。
だからこんなにも『今』に平常との差異を感じたのだ。
「お前、猿がオレを気にするのが気に入らないんじゃないのか?」
子津が何も弁解しないのをいいことに、口が勝手に言葉を紡ぐ。
確証なんて、ない。
ただ一度目も、二度目も、そのあとも全て猿が居たときだった。
猿がオレと喧嘩して、子津よりもオレに気を取られているときだった。
あの瞳を見たのは。
くっ、と、子津が唇をかんだ。睨み付けられる。
憎しみと嫌悪と、それを上回る――嫉妬。
「……そうっすよ」
子津がオレの首元の襟を掴んだ。
子津は立っているため、椅子に座っているオレは自然に子津を見上げる形になる。
「でも猿野くんが君を気にするところが気に入らないんじゃない。君が猿野くんにイチイチ突っかかるところが一番気に入らない。そんなにも嫌いだというのなら猿野くんに近づかなければいい。好きな子を苛めるなんて、趣味の悪いこと今時小学生でもやらないっす」
「な……っ」
好き、と言われて絶句する。
オレは猿にそんな感情を抱いているわけじゃない。
思わず、立ち上がった。
そんなに強く掴んでいなかったのか、子津の手は簡単に外れる。
「勘違いしないでくださいっすよ。君の『好き』がどんな種類かなんか知らないっす、でも君が彼に何らかの好意を抱いていて、それ故に彼に酷い言葉を投げつけるということだけはわかるっす」
今日初めて子津の目が、オレの目より低くなり見上げられる。
なのに、それにすら寒気が走った。
この緊張とも冷や汗とも呼ぶべき悪寒は、見下ろされていたがための威圧感だけではなかったのだと思い知る。
「少し、大げさじゃねえか」
虚勢に吐き捨てるように、言う。
酷い言葉、とはいつもの言い争いのことだろう。
声を押し出すように言うと子津は、馬鹿馬鹿しい、とでも言いたげに目を伏せた。
そしてまた視線が上がり、黒い瞳に真っ直ぐ見上げられる。
冷ややかさを抱えた視線に。
「他人の嫌がることでしか興味の惹きつけられないのは、幼稚園で卒業して欲しかったっす。君みたいに、鈍感な人間ばかりじゃないんすよ」
地を這うような声、というのはきっとこれを形容するためにあるのだろう。
それほどにいつもと違う、感情を殺ぎ落とした子津の声は、ただ冷たくさえなく禍禍しいとも呼べた。
「彼が傷つくことだってある。君の拙いコミュニケーション手段のために」
もう一度、首襟を掴まれて引き付けられる。
この視線を間近で見たくないと本能が訴えたが、目は逸らせなかった。
「僕はそれが赦せないんす」
とん、と今まで首元をつかんでいた手が胸が押し、一歩踏みこたえる。
恐怖のせいなのか、なんなのか体に力が入らない。
デクの棒のように突っ立つオレを一瞥して、今度こそ本当に用がなくなったのか子津が扉に向かった。
「なのに」
子津が独り言のように呟く。
扉を開けて一度だけ、振り返った。
「猿野くんが君なんかを気にかけていることも許せないんすよ」
ピシャンッと鋭い音を立てて、扉が閉まる。
足音が遠のいたのを確認してと息をつく。
恐怖も、焦りも、悪寒も吐き出すように。
そして、勉強する気分ではないと言い訳めいたことを考えながら、オレは教科書や筆記具を鞄に詰めこんで逃げ出す準備を始めた。
ふと、窓の外を見ると夕日が赤い。
何もかも赤く平等に照らしだして、太陽は無責任に沈む。
部活に行く気分にもなれず、帰るために担いだ鞄はやけに軽かった。
オレは猿が好きなのだと、子津が言った。
あんなに猿のことで怒る子津も、きっと猿が好きなのだろう。
それはどんな『好意』なんだろうか。
猿が子津に向ける『好意』はそれと、同じものなのだろうか。
――なら、オレの猿への『好意』はどんな種類なのだろう。
校庭から風に乗って流れてきた猿の子津を呼ぶ声が、
うっすらとオレの胸を軋ませた。