モクジ

  スイカ  

「あついね」
 参ったように牛尾が呟いた。それならばクーラーの効いた自室にでも帰ればいい、と再三言っているのだが牛尾は頑として聞かず、この広くも無い扇風機しかない六畳間から腰を上げることは無い。
 笑って、暑いと繰り返すだけだ。
「西瓜とか、食いッてーな」
「買ってくる?」
 似合わない団扇を片手に、牛尾が尋ねる。けれどその持ち方にぎこちなさはなく、初め用途を聞いてきたときが、嘘のようだ。
「いや買ッたのとかじゃなくてよ、猪里んちのが食ッいてぇ」
 暑い日は、無理なことが言ってみたくなる。何となく口に出した言葉は思ったより、自分の心に圧し掛かってきた。唾液を飲み込む。
「猪里くん?」
「お前も、食ったろ。去年の夏かなんッかに食ったやつ」
「食べたね、そういえば」
 自分の心にあるほど鮮明に、牛尾は覚えているわけではないのだろう。暫し、考えているようだった。
「長戸くんが好き嫌いしてて猪里くんに怒られたときだよね?」
 しかし、牛尾が状況として提示したそれを、獅子川は覚えていなかった。甘さと、自分の食べ方に対する鹿目の文句や、種の多さばかり思い出す。
「じゃねーか?」
 獅子川は明言を避け、うん、そうだ。と牛尾が一人ごちた。
「あー、食いッてぇ」
「明日辺り持ってきてくれるかもね」
「今。今食いてぇ」
「無理だから、それは」
 牛尾が、笑う。こいつはいつから、こんな風に笑うようになったんだっけ。昔は叶うはずも無い獅子川のわがままに、困ったように無理だ、と繰り返すだけだった。そういう反応よりは全然良いとは思ったけれど、なんだかもったいないと思った。どんな牛尾でも、過去としてあまり表に出てこないのは、もったいない。
 自分は記憶が良くないから、こうして時折思い出せるならまだしも、そのうち完全に忘れてしまうこともあるだろう。楽しそうに笑う牛尾に埋もれて、困る牛尾は消えてしまうだろう。初めから、全てが与えられたものだったように。
 それが嫌だと思った。
 もう既に、すっかり忘れてしまったものも、あるかもしれない。
「あー、でも食べたいねぇ」
 うつったのか、牛尾も言う。他人の口から聞くと、思いはさらに募り口の中に、西瓜の甘さが広がるようだと思った。
「アイス」
「え?」
「何か、スイカアイスでッもいいや、オレ」
 生半可な西瓜を食べるよりは、そちらの方がよほど、理にかなっているような気がした。蝉は相変わらず騒いでいて、静かに話す牛尾の声を所々遮る。
「買いに行く?」
「出かけるの面倒くッせぇ」
 自分で言い出したくせに、やっぱり出かけたくないとは何となく言えずに、適当に理由をつけた。言いながら、本当に適当だと思った。それでも牛尾は首を少し傾げただけで、上げかけた腰を戻す。
「うッしお」
「何?」
「アッチィな」
「暑いね」
 言いつつも、見た目だけは涼しげにこの狭い部屋に座る牛尾を、覚えておこうと思った。そのうち、暑さを嫌ってどこか外へ、誘う牛尾になるのかもしれない。忘れてしまったように来なくなる牛尾に、なるのかもしれない。
 それが悲しくないと思う自分に、なるのかもしれない。
 だから、こんなどこにもいいところなど無い家に好んで居る牛尾と、それを喜んでいる自分を出来るだけ覚えておきたかった。
モクジ