犬辰コンビがソフトボールに移ったときの話です。

モクジ

  遠のく雨音  

 雨のザァザァという音の間を縫うようにカスッ、とまた間の抜けた音がした。まだだ、まだ、駄目なんだ。下投げはどうしても慣れなくて、満足のいく球が中々投げられない。
 拭った汗に、手の甲が滑った。ついでに湿った地面に力を込めた足が沈む。そこで漸く俺は周りを見回して、もうボールの具合は音でしか判別できないくらい(それも、雨の音に遮られて難しい)暗くなっているのに気付いた。
 座り込むつもりはなかったけれど、一度逸らされた意識が仇になって、足から力が抜ける。雨に濡れた地面の冷たい温度に、早く家に帰らなければと理性は言うが立ち上がる気力も、もはやなかった。雨のしずくが、運動に火照った頭を冷やす。
 荒い息に眩暈もした。圧倒的に脳に酸素が足りない。じっと座っていると呼吸が戻ってきて、楽になってくる。
 もうどのくらい時間が経ったのだろう。悪い視界を見回してみるが、太陽もなくては大体の時間すらわかるはずもない。それでもそんなに体力が減った覚えはないから、少なくとも五時は過ぎたろう。
 腹が減ったとぼんやり思ったが、まだ立ち上がるまでに、気力は回復していなかった。
 そこで、俺は近づいてくる、ジャリジャリと小石を擦る音に気付いた。それに傘が雨を弾く小気味良い音。意識もせず、俺はその人影を予想している。
「……辰」
 顔も上げずに名を呼んだ俺に、傘を片手に辰は呆れたように腰に手をついて首を傾げて見せた(ような気配がした)。
「やはり、まだここにいらっしゃいましたか」
「……先……に……帰れ……っつ……たろ」
 乾いた口の中を、唾で湿らせつつ喋らなければならないからどうしても途切れる俺の言葉を聞いて、辰は間髪入れずに言い返した。
「一度帰りましたよ私服を着ているでしょう」
 矢継ぎ早な口調に、怒っているのだろうと確信する。わかっている。ここ数日にわたる、体の酷使を辰が許すはずもない。こんな雨の日に、傘も差さずに練習していればなおさらだ。
「休憩は?」
 尋ねた辰の声は、雨と同じくらいに冷たく聞こえた。
「……」
「おとりになっていないのですね……」
 答えない俺の返答を受け取って、辰が大袈裟にため息をついた。何かビニール袋に入った包みを、俺の横へ置く。そして何となく目を合わせられない俺に、声をかけた。
「犬飼くん」
 情けなくとも、返事も出来ない。顔も上げられない。
 雨が前髪を伝う。休むことなく伝い、時々辰の声を遮る音も止むことはなかった。すぐ傍で、音は続いている。
「犬飼くん」
 辰が俺の名を呼ぶたびに、俺は雨で容赦なく打たれるよりも居た堪れない気持ちになった。
 わかっている。本当は、わかってるんだ。何も考えずにがむしゃらに投げたところで効率よく何か出来るはずもない。本当は、そんなこと知っているんだ。わかってるんだ。
 でも、でも。
 伝えられなくて苦しい。今俺がしたいことはどうしてもしたいことだと心が叫ぶのに。どうしても伝えられない。どうしても、どうしても必要なのに。
 伝えなくちゃならないのに。
 そうやって、心の中で必死に言い訳する俺の傍で、不意に傍の雨音が止んだ。代わりに間近になったのは、ビニールが雫を弾く音。
「……怒ってなどいませんから。顔を上げてください」
 穏やかな、ゆっくりとした口調で辰は言った。見上げた辰は、困ったように、でも本当に怒ってないみたいに、微笑んでた。傘を、俺の方へ傾けている。
「今は、いくらでも無理をなさい。怪我など私がさせません。風邪などこのあと暖まっても絶対に予防できないものではありません。傘を差すのが煩わしいのなら、私が代わりにさしましょう。がむしゃらにやって、やって、立ち止まったときでも、私が傍におります。――今は、今だけは、お好きなようになさい」
 何で。何で。何で。何でだろう。何で辰は、何も言っていないのに(言えないのに)こんなに俺のことがわかるんだろう。俺は咄嗟に俯いた。鼻の奥が、じんとする。
「お腹も減ったでしょう? お弁当持ってきましたよ」
 肩に、ビニールがつく感触がする。辰が俺の背に傘を置いたようだ。
 小石と雨でに満たされた、視界の片隅で辰の手が動き、ビニールから中身を取り出す。中から出てきたのは、家のバスケットだった。文句を言いながら、母さんか姉さんが準備をしてくれたんだろう。もうやめてほしかった、みっともなく泣いたらどうしてくれる。
「はい」
 声に目を上げると、いつの間にか俺に傾けている傘とは別の傘をさしていた辰が差し出していたのは、三角形に切られたケーキだった。視線で問う俺に、苦笑する。
「本当ならデザートなのでしょうが、あまりにもお弁当の量が多いもので先に食べていただこうと思ったんです」
 つい、と辰が少しだけケーキと、俺の距離を縮めた。雨の音が遠くなる。傘の音すら遮って、辰の声が間近ではっきり聞こえる。
「折角の、お誕生日なのですから」
 差し出す辰の手が、辰の傘からはみ出して濡れている。少し躊躇って、結局俺はそれを受け取った。受け渡しの際に一つぶ二つぶ水滴を受けてしまったケーキが(俺の手も濡れているからそう変わりはしないが)甘く、そして若干苦いのは、辰の手製であるからなのだろう。俺の好物を知っている辰の。
 今度こそ涙腺が危なくて、俺は深く俯いた。雨の音は止むことなく、俺と、俺の傍の辰を取り巻いている


 だが、俺はいつかこの雨が止むことを知っている。例え長く降り続いてもその雨音はふとした拍子に何度も、何度も俺から遠のくことも。
モクジ