※和解前に書きましたので矛盾があります

モクジ

  色褪せた理由  

「ああ、そういえば。そんなこともありましたね」
「そういえばって次元かよお前……」
「と言われましても」
「何何―? 何の話ぃー?」
 ドンッと衝撃とともに、辰羅川の眼鏡が落ちる。辰羅川はため息をついて、それを拾い上げ
「大した話ではありませんよ」
 眼鏡の埃を払いながら、腰に抱きついたままの兎丸を見下ろした。
「ふうん?」
「いや、相当大事だろがよ!」
 珍しい猿野の態度にも兎丸は首をかしげた。まるで二人の態度が普段と逆だ。
「何なのさ、兄ちゃん」
「あ? ほらよ、あれ、今日たっつんの誕生日だっつー話だよ」
「あ、辰羅川くん今日だっけ?!」
 辰羅川が、うんざりとした視線を二人へ向ける。
「誕生日など、さほど意味もありませんよ。年の経過で数えるならば学年の境のほうが余程重要でしょう」
「そういう問題でもねえだろ」
「それに辰羅川くん、みんなのお祝いはするよねー?」
 はた、と時が止まり
「ああ!」
 と、猿野が手を打った。対して辰羅川は苦虫でも噛み潰したような顔をしている。
「それは……」
「そーじゃん、たっつん。何気に一番誕生日覚えてんのたっつんじゃねーの?」
 兎丸と猿野の誕生日以外は、言い出したのは辰羅川だったような気がする(兎丸の誕生日は入部前に終わっていたし、猿野は一ヶ月前からの自己申告が絶えなかった)。データ収集に余念がないだけのかもしれないが、わざわざ言い出すあたりそれほど誕生日の存在を無碍にしているとも思えない。
「大した事ではありませんよ。せいぜい一年生ばかりで先輩方など露にも知りません」
 これで仕舞いだといわんばかりに、辰羅川がその場を去ろうとする。腰にひっついたままの兎丸に引き止められ、ますます不機嫌そうに目を細めた。
「それでもすげえっての。つかさ、なんでたっつんそんな機嫌悪ぃの?」
 さらに猿野に腕をつかまれ、辰羅川は答えに窮した。
「べ……つに、そんなこと……」
「嘘。なんか今日のお前変だぜ?」
「変なことなど、」
 存外、猿野は強く手を握っているらしい。すくなくとも、辰羅川程度の力ではびくともしなかった。猿野の表情には、動揺も怒りもない。真摯な瞳に辰羅川は顔を逸らした。
「なあ、なんで?」
 答えられない。
「猿野くん、はなし……」
 引き剥がそうとした手を、さらに浅黒い手が掴む。
「犬飼く、」
「何してやがんだバカ猿」
「犬……」
 掴まれた手を、猿野が振り払った。
「別に。たっつんが機嫌悪ぃって話だよ。大方、テメェがまた飼い主さまの言うこと聞かずに困らせたんじゃねえの?」
「兄ちゃん」
 辰羅川を離れて、兎丸が猿野の袖を引っ張った。犬飼が、乱暴に舌打つ。
「猿と一緒にしてんじゃねえよ」
「あァ? 誰がコゲパンと一緒だ?」
「もーちょっとやめてよ、兄ちゃん! 辰羅川くん困ってんじゃん!」
 背伸びをした兎丸が、とうとう猿野の手をとった。
「辰羅川くんがいい、って言ってんならいいじゃない。ここで喧嘩したってしょーがないよ」
「つったってよ……」
「お祝いはまたこんど、ほら、たっつんの言うとおり年度末にでも、みんなでやろうよ。今はとりあえず部活に戻るの。わかった?」
「……」
 ぷい、と猿野が踵を返してしまう。その先には子津や司馬がこちらを見ていて、随分悪目立ちしていたことに辰羅川はやっと気付いた。
「ごめんねー、兄ちゃんちょっと拗ねてたんだよ。なんか随分前から気にしてたから。迷惑とかよくかけてるからさ、パーっとなんか奢ってやろうかって」
「謝られることでは……」
「そう? まあ、それでなくとも最近辰羅川くん元気ないみたいだったから、ちょっと心配だったんだ。だから、犬飼くんもあんまり兄ちゃんを怒らないであげてね」
 元より返事など期待していないのであろう。あっという間に、兎丸は走り去ってしまった。

 残されて、黙り込んでしまう。気まずさも何も、辰羅川だけのものなのか、犬飼は些か不機嫌そうにグラウンドを見つめているだけだった。はやく、先輩の怒声でも聞こえればいいのにと、不謹慎なことが頭をよぎってしまう。
 期待するようにグラウンドを見つめても、牛尾も蛇神もそれぞれのメニューに集中しているようだった。
「……そろそろ戻りませんか?」
「ああ」
 さっさと、犬飼が歩き出してしまう。小走りに追った。
「辰」
「なんでしょう」
「あいつがいないからか」
 突然の端的過ぎる質問に、見慣れた背中から目を逸らさずに辰羅川は眉を寄せた。
「誕生日が嫌なのは」
 少し遠くでは、部員たちが駈けずり回っている。こうやって遠くから見てしまえば、リトルリーグも高校野球も大差ないのかもしれない、そういう気分になる。まるで、あの頃から何も変わっていないような。
「そんなことは」
 声は掠れた。やり場のない焦燥感の正体を、辰羅川は知らなかった。犬飼が立ち止まった。振り返る。
「違うのか」
 心臓を、理不尽な力で掴まれた心地がする。答えることもできずに辰羅川は立ち尽くした。犬飼の眉間に皺がよる。
「答えろ」
「犬飼くん」
「答えろ」
「……犬飼くん」
 夕暮れの校庭で、覗きにいったスポーツ店で、いつでも三人一緒だった。思い出の人影はひとつだけ、黒で塗りつぶされている。
「私は、」
 喉が渇いた。

 なんの、なんの話をしているのだっけ。
 うしなった、そう遠くに手を離した。
 手を伸ばす。犬飼の先で、赤が沈む。


「あなたの手を掴んだのです」
 しっか、と伸ばした手は犬飼を捕まえた。

 虚をつかれて、犬飼がまじまじと辰羅川を見る。
 誕生日に、足りない人が悲しいのではない。笑わなくなったあなたが悲しい。
 黒い人影を気にしているのが誰よりもあなただとは言えなかった。
モクジ