鳥が落ちた日
たっつんがいなくなった。一通の手紙以外何も、残っていなかった。
医者がきて、あと何ヶ月も生きていられないだろうといった。たっつんはそれを知らないはずだ。なのに、たっつんは死を仄めかす手紙を残していなくなった。たっつんは父ちゃんは医者だって聞いたことがあった。
そのくらい、わかったのかもしれない。
ほうぼう探し回って、それでもたっつんは見つからなかった。
みんな諦め始めた。だって、死人はどこにだって隠れられる。食べ物もない山の中でも、魚に食われる海深くでも。
犬飼が出てこなくなった。部活にも学校にも。あのバカ広い家で死にかけてると、華武のフーセンが吐き捨てにきた。
「わんこ」
オレのかけた言葉は玄関でくるっと空回りして、どこかへ消えていった。埃の溜まった土間に、靴を脱いで上がる。途中に割れた皿が落ちていた。あちこちに、破片がとんでいる。
オレは素足なので、踏まないように気をつける。強い力で叩きつけられたのだろう。驚くところにまで、陶器の破片は転がっていた。玄関から続く廊下の突き当たりに大きな扉があった。
あけると、こちらに背を向けたソファが目にはいって、首を回せばテレビがあった。大きくて、高そうだ。視線を戻すとソファから足がはみ出ていた。浅黒い、多分犬飼の足。注意深く見れば、その反対側から銀の髪がはみでているのもわかった。
「わんこ」
回り込むと犬飼は寝ていた。精悍な顔に、無精髭が生えている。判断するまでもなく、やつれていた。起こすべきがどうか迷う。そして、起こしたところでどうするか。悩んでいると、人の気配を察したのか当の犬が目を覚ました。
「はよッス」
言う。犬飼は動かなかった。目を開けたまま、しょぼしょぼとまるでオッサンみたいな目でオレを見ている。
「辰」
びっくりした。
「は?」
続いた疑問符に安堵する。たっつんと間違えられたら、殴りつけるところだった。
「見つかってねえよ」
そういうと、犬飼はオレに興味をなくしたようだった。瞳の焦点がずれる。
「起きろよ、飯は?」
答えは返らない。
「おい」
「……せ」
呟いた言葉を拾いきれなかった。それに気付いたのか、犬飼はもう一度口を開いた。
「殺せ」
涙が、静かにこめかみを伝って、銀の髪に紛れた。
「殺せ」
「……にを、いって」
「オレは死ねないんだ」
さみしいこえだった。さみしいさみしい。
声の振動のひとつひとつがオレに言う。
「辰が死ぬなって言って行ったんだ」
「犬」
おかしい。なんだ、それ?
犬は、たっつんに会っていないはずだった。たっつんは熱があると学校を休んで、仕事の両親を送り出し、そのままいなくなった。前日から、たっつんは出て行くつもりだったんだろうか。
でも犬は警察に心当たりがない、といっていた。おかしなことを言っていれば、結びつきそうなものなのに。
「あの日、晴れてた」
……前日は雨だった。当日は晴れだった。そういえば、犬はあの日遅刻していた。合同授業の講堂の席が、こいつらのクラスに二つ空いていた。
「あの日、辰が迎えにくるのが遅くて、」
ドクドクと心臓の音が聞こえる。それが不安感を生み出す。どうして、オレはここに一人で来たんだ。誰か、誰か。ああ、子津でも連れてくればよかった。
「だからオレは寝過ごした。辰は、一限が始まったあたりに迎えにきた」
――おはようございます、犬飼くん。
たっつんの笑顔が見えるようだった。とろけるような、それ。熱に浮かされ、溶度は増す。
「なんか、様子が変でどうしたんだ、て聞いたんだ。熱があるって辰は言った」
どうせ一限に出るつもりはないのでしょう? 二限まで時間を潰してからいきましょうか。
たっつんはそうも言ったという。
「いつもは熱があると、移るって見舞いもさせてくれないのに」
犬の焦点が変なところにあっている。覗き込むオレを通り抜けて、遥か遠く。
「二限が始まる時間になってもだらだらしてた。辰が、出かけようっていった」
息が、痛い。怖い。
「コートを羽織って外に出た」
たっつんは真っ直ぐ駅に向かったという。二人分キップを買って、学校とは逆方向の電車に乗った。
「なんて駅だったかは、覚えてねえ。すっげえ、遠くだ。眠くなるほど、電車に乗ってた」
実際、わんこは眠っていたのだろう。肩によりかかるこいつを、幸せそうにたっつんが眺めている。
「ちっちぇ駅だった。自動改札もなくて駅員にキップを見せた。出ると、目の前が海だった」
きれいですね、あの情緒的な男のことだ。そのくらいの賛辞は口にしただろう。
「辰はまるで道を知っているみたいだった。ぐねぐね曲がると、でっかい崖に出た。立て札がいっぱいあった」
そんな光景を、オレは知ってる。何年か前に行った家族旅行だ。絶景だといわれた観光地に『考え直せ』とか、『死ぬ気になればなんでもできる』とか、そんな立て札が並んでいた。
「辰は、笑ったんだ」
崖に背を向けて。
「辰は」
たっつんは穏やかな男で、滅多に笑みを絶やすことはなかった。その笑顔を、わざわざ話すと言うこと。どんな笑顔だったんだろう。綺麗だったのか、儚げだったのか。
恐ろしかったのか。
「と」
「――言うなッ」
悲鳴をあげたオレを、ぼんやりと犬が見つめている。
「なんでだ」
「お前……それは……ッ」
いなくなったたっつん。崖に立っているたっつん。もう、永くなかったたっつん。示す先は一つだ。
「……お前には、教えてやろうと思ったのに」
犬は、わけのわからないことを言った。オレは自分を守るように頭を抱えていた耳を塞いでいた手を離して、そちらを盗み見る。犬は起き上がっていた。
ソファから長い足が直角に落ちている。
「……何をだよ?」
好奇心は猫をも殺す。知っていたのに、オレは。犬飼はオレも見もしなかった。
「ひとはとりになれるんだ」
犬飼が浮かべた笑みは、あまりにも凄絶だった。その日、オレは一人では飛べない犬を飛ばしてやったんだ。
「それで犬は、」
「やめてください! やめてくださいっす、猿野くん!」
「なんで?」
「なんで……って……」
「なんだよ、子津っちゅーだけには教えてやろうって、決めてたのに。犬飼とオレと、あとたっつんだけのヒミツだったけど、お前だけには教えてやってもいいかな、って思ったのに」
「ヒミツって」
呆然と顔を上げる子津に、オレは笑った。
「ひとは」