困った人
辰は、結構口煩い。
昼飯もパンとコーヒー牛乳だけじゃ駄目だって言って弁当作ってくるし、トレーニングなんかも適当じゃ怪我をするって言う。
オレはあんまそういうこととか気にしなくて、つーか気にするっていう感覚がわからなくて、大抵辰に頼りっ放しだ。
あんま、辰の言うことをやりたくねぇとか思わねぇし、やらなくたっていいことねぇって知ってる。
パンとコーヒー牛乳だけじゃそん時はよくても、五時間目の途中から腹鳴り出すしトレーニングの仕方を知らなかったころは捻挫とかよくした。
だから、辰の言うことは何だって正しいんだと思う。
でも、辰はそれを言うと、困ったように笑うのだ。
「困った人ですね」と。
困った人っていうのは、どういう意味なんだろう。
オレがオレのしたいことはどうしても大切なことだと思って、辰の言うことを聞かないと辰は決まって困った顔をする。
それは決して笑ってはいない、100%の困った顔だ。
だったらまだ困っても笑えるほうがいいと思うのだけど、辰は100%の時はそんなこと言わない。
「困った人」と言うのは、辰は正しい、って言うと、だ。
何でだか、オレにはわからない。
わからないけど訊けない。
訊けば、辰はもっと困った顔するって知ってる。
困ったっというか、少し悲しそうな顔をするのだ。
オレはそれが嫌で辰の困った顔を黙ってみている。
そうすると辰はそのうちにっこり笑う。
今までの困った顔全部忘れるように笑う。
そして「行きましょうか」とオレに向かって手を伸ばす。
辰の手のひらは訊かないでくれ、とでも言うように少し汗ばんでいて。
会ったばかりのころみたいに手を繋ぎながら家路についたり、部活に行ったりする。
それで少し歩くと「本当に困った人ですね」と辰はまた少し苦笑するのだ。
でもそれはどこか嬉しそうでそれを見るのは嫌じゃなくて、オレは黙って頷く。
でも、たった一度だけ。
初めにそう言われた時に、何故かと尋ねたことがある。
神盟中に入る、少し前だろうか。
あの頃はいつでも一緒だった御柳は、何でか居なかった気がする。
辰はなんでもないように
「貴方が私を信じてしまっているからです」
と答えた。
オレはもう一回何故それが困るんだ、と尋ねれば
「例え話をしましょうか」
と、青い空を見上げた。
確か、そこは鍵の壊れた屋上だったんだと思う。
「例えば、貴方が1+1=2であることを知らなかったとしますね」
「とりあえず、そんくらいオレでもわかるぞ」
「例え話ですよ」
にべもなく言われて、オレは黙った。
「1と1がある。貴方は足さなければならないということがわかっても式を知らない。でも、私はたまたま1+1という式を知っていて、貴方に教えて差し上げた。ついでに私が出した答えも。貴方は、なんらかの方法で1+1という式は、1と1を足すときに使うものとして、正解であるということを知った。だからその式からわたしが導いた答えを信じたんです。確証なんかどこにもないのに。もしかしたら過失で、もしかしたら故意に、3や1と答えていたかもしれないのに。」
辰は一息で言って、オレは全くわからなかった。
論理の流れとかいう問題の前に、もうカシツとコイという意味がわからない。
「これが、私の困る理由です」
そして辰は上げていた視線をオレに戻した。
確かに、辰は笑っていて、でもオレは
辰は泣きたいんだろう、と思った。
ぐい、と腕をつかんで辰が昔やってくれたみたいに胸に顔を押し付けて、手で押さえる。
「いぬか、いくん?」
戸惑ったような声がオレを呼んで、オレは
「とりあえず、泣きたいんなら、泣け」
とだけ言った気がする。
辰は一度黙って、オレの制服の裾を掴んで、
「だから貴方は困った人だと言うんです」
と、言った。
でも、声は困ってなくて、きっとオレは嬉しいんだろうと思って、しばらくそうしていた。
御柳が来て、あったことを話せば「馬鹿犬」と呆れたようにオレを見た。
そんなことを言う御柳をいつもはやんわりと咎める辰が肯定するように、また困ったように笑ったのを、珍しくてよく覚えてる。
御柳がいなくなって、オレは何故と聞かなくなっても、今日も辰は笑ってる。