赤い糸
(いつかの話だ)
「慰めろよ、ネズッチュー。さびしくて死んじゃう」
きょとん、とこちらを見た子津が、一瞬おいて破顔した。
「心にもないこといって」
そんなつもりじゃなかった。胸のまんなかに丸く穴があいて、きゅうきゅう縮んだり広がったりするそこが痛くて、ほんとうに死んでしまいそうなのに。あからさまに頬を膨らませた猿野に目も向けず、子津はくすくす笑っている。
「ほんとに。さびしい。やさしくしろって」
「はいはい」
頭に手をやられた。犬や猫や、または子供にされるようなそれに、目を閉じて、すぐにあける。ささやかすぎる。
「ねえづ」
困った顔で、子津が小首を傾げた。
「ほんとうにそう思ってるんだったら、閉じ込めちゃうっすけど」
返事が浮かばなかった。冗談っすよ、と子津がまた、笑う。
(きっと、子津はオレより、ずっとさみしかったんだ)
わかっても、猿野のさみしさは収まらない。
いっそ気持ちだけふたつ、あればよかった。
(今でもない未来でもないいつかの話)
――淡い春の光を背景にして、人影を写した障子が開いた。
膝をついていた子津がにじり入ってきて、閉めたあとようやく隣の盆を持って立ち上がる。茶菓子は? と訊くと「お饅頭っすよ」と返って来た。次のセリフには脈絡が無かった。
「恋人同士は赤い糸で結ばれてるって言うっすよね」
饅頭と湯気の立つ急須と湯飲みを盆を卓袱台の上に乗せながら、子津が微笑む。視線は猿野の小指ばかりを追っていた。
「何、いきなり」
「お店の方通ったら、えんじ色のお披露目をやってたすよ。それが綺麗で」
思いついたんす、といいながら饅頭を差し出してくれる。ようやく子津の視線から逃れた小指を今度は自分で見つめながら
「ねえな」
と、ほんとうのことを言うとひどく悲しそうな顔をされて驚いた。「そうっすよね、あるはずないっすよね……」なんて、マジメに言うなよバカじゃねえか。とは、さすがに口に出せない。
しょんぼりと急須から茶を注ぎながら、子津が俯く。
だってしょうがねえじゃん、ほんとのことなんだから。と猿野は心中ぶつくさ言っている。変なところで打たれ弱い。変なところで強いくせに。
「で、僕、糸持ってるんすよね、赤いの」
そう、子津は変なところで強い。
藍色の袂から取り出されたそれと、しばらく見詰め合ってしまった。
子津は何事にも丁寧で熱心で粘り強い。勉強の中では英語の書き取りが一番楽しいと聞いたときには眩暈がした。宇宙人と友達になれるだろうかと本気で悩んだ。
そしてその特性は今も遺憾なく発揮されている。
もう猿野は疲れた。本気で疲れた。何に動いているわけでもないのに人間は疲れるのだと学んだ。
子津は楽しげに、くるくると猿野の指にひたすら糸を巻き続けている。もう猿野の指を包む赤い紡錘形の繭からは、でかい蛾が生まれてもおかしくない。
「バカじゃねえの? ネズッチュー、バカじゃねえの?」
「猿野くんにバカって言われたらおしまいっすよ!」
「おい、そこの鼠。この期に及んで自分がツッコミ役だと思ってんじゃねえぞ」
「僕はいつでもマトモっすよう」
尖った唇がちょっと可愛くて腹が立つ。
「えー、もう天国ツッコミきれねえよ。お前をツッコミ業放置の罪で逮捕したい」
「婦警さんはちょっとマニアックかなあって思うんすよね。僕どっちかっていうとナースさんとか、あ、女中さんとか……」
「うん、ごめん、もう黙って巻いてていいや」
くるくると、繭は大きくなってくる。カブトムシが出てきても、そろそろ可笑しくない大きさになった。赤い糸が伸びてくる袂の中に、あとどれほど入っているのだろうと考えたくもないのに思ってしまう。
「なあ、もうオレ疲れたー」
「あとちょっとっすから」
「ちょっとってどんくらい」
「ちょっと」
「お前のちょっとはいつだ!」
「だからちょっとっすよ」
ふん、とふて腐れて猿野はそっぽを向く。ほんとうは、この糸を巻いている間だけが、子津が寂しくないのだと知っている。猿野もさみしくなくなったと気付いている。
でもまたいつかさみしくなると、わかっている。
(この糸に絡め取られてひとつになってしまいたい)
(でも無理だ)
(だって猿野にしか、糸は絡んでいないから)
(子津は臆病者だから)