満月の海へ泳ぎだしたピーターパン
棺を閉じて。棺を増やして。
――あなたの近所に神社はあるだろうか。無い人も、身近にいったそこを思い浮かべていただきたい。夜の神社を。満月の晩、人気は無い。しかもあなたの身近のそれとは違って(もしかしたら違わないかもしれないが)、長い長い階段の上に位置し、正月以外の普段の人通りも決して多いとはいえないのだ。裏手に道路から続いた駐車場があるせいで、たまに如何わしい目的の車や不法投棄が問題となったりする。撤去は随時行われるものの、今も壊れた冷蔵庫やテレビが、本殿を拝んでいた。
そんな荒廃と神聖を併せ持った空間に、一人の少年が入り込んだ。
少年の片手には袋の口が握られている。一昔前の県指定の、中身の見えないゴミ袋である。家で埃を被っていたそれをひきずりだしてきたのかもしれない。なんにせよ、部活に恋に夢中になっていそうな健康的な肢体にそれはひどく違和感を生じさせた。そこだけが、現実の生臭さを漂わせていた。
長い階段を登り終わった途端に、少年は袋を投棄た。まるで憎むものをわざわざここまで引きずってきてやったと、誰かに見せ付けるように。
投げ捨てた途端、腐臭と血が、かすんで白い袋から漏れ出た。
少年のスニーカーが、零れた血を踏みつける。べったりと、粘着質な感触がした。靴を脱ぎ、掴んで、少年は本殿の真正面へ進む。睨み付けるように向かいあったあと、手に持った靴の爪先を、コンクリートにつけた。引きずると、赤い線がコンクリートに付着する。
時に直線を、時に曲線を。描きながら、少年は靴をひきずる。白いはずの靴下が、闇夜にも汚れたのがわかる。気づいているのか、いないはずはないけれどまったく頓着せずに、少年は靴を引きずる。直線を、曲線を描いて。
少年が靴を投げ捨てた。境内には、人が歩くためのコンクリート、神域に続く土に関わらず意味はわからないのに不快感を催させる幾何学的な模様が引かれた。
さっき投げ捨てた袋に、少年の細い手が差し込まれる。出てきたそれは、動かない鴉を掴んでいた。目はぎょろりと白目を剥き、赤い肉が黒いからだのところどころから覗いていている。べりゃり、と文様の一角に少年はそれを叩きつけた。干からびていたようにも見えたそれからは、まだ血が滲んで、線と混ざった。少年の頬にも、かって鴉を生き物たらしめていた水がかかった。
それを拭うこともなく、今度袋から無造作に取り出されたのは、何か、四本の棒のようなものだ。まるで無作為に選んでいるかのように、あちこちに投げ捨てられる。近づいてみれば、ふわふわとした毛の纏わりつく何か、たとえば猫や兎の足だと伺い知ることができるだろう。
そうやって、小動物、あるいは小さくないものを、少年は地面に引かれた線の一部にした。
そして最後に。
少年は汚れた手を服で拭いて、頬の血も擦り、その内ポケットに手を差し入れた。ゆっくり、先ほどまでの勢いが嘘のように。
取り出されたのは、青く小さな機械だった。データばかりが収められる今には少しばかり古めかしいかもしれない。そのMDプレイヤーを大事そうに両手に包んで、少年は膝をついた。
ちょうど、本殿の正面、文様の中央である。
そこにそっと、堅い音もさせずに少年はプレイヤーを置いた。まるで、何かにささげるような仕草で。幸せそうに微笑みながら、青い機体を見つめた。月が昇る。
月は、昇る。
少しずつ本殿の影の位置が動く。たかだか四半刻かそのくらいだろう。授業終了前のそれより長く少年には感じられた。影の位置は動いて、文字通り血で描かれた軌跡を全て覆った。
「司馬くん」
一声だけ、闇に染み入るように、兎丸が叫んだ。
初めは、小さな光の粒子だった。それはひとつふたつと集まり、光の玉になる。それはいくつも増えて、やがて人の形を作った。兎丸が笑った。満面の笑みで。
「おかえりなさい、司馬くん!」
現れた司馬は、制服だった。兎丸のイメージかもしれない。司馬の最期を兎丸はみなかった。見られなかった、泣きじゃくり、猿野に抑えられて、獅子川に宥められて、牛尾にしがみついていた。
司馬の最期を知らずに、兎丸は司馬を呼んでいた。呼ばれた司馬が、悲しそうに微笑む。
「僕ね、僕ね、たくさん勉強したんだよもう、一年分勉強したんじゃないかってくらい。図書室なんか初めて行っちゃった。あそこじめじめしてて、なんだか嫌だね。キャプテンもいて、僕のこと応援してくれたんだ。ねえ、司馬くんおかえりなさい」
兎丸は、ことさらに笑い声をあげた。司馬が喋らないことが負担なのではなく、何かがおかしいと気づかざるをえなかった。
「……」
「……」
「…司馬くん?」
間があいた。耐え切れなかった。兎丸は禁忌を破る。手を伸ばす。
手はすり抜ける。
「しば、くん」
「触れないでしょう?」
声帯ではないところで、司馬が喋る。悲しそうに笑って、しゃがんだ。兎丸は、青い旋毛を見下ろして
「触れなくたって、いいもん」
震える声で、兎丸は言う。泣いてはいなかった。ただ、震えていた。
「いいもん、司馬くんがいてくれれば、触れなくたって。いてくれればいい」
「ぴの」
ゆっくりと、司馬が顔を上げた。悲しみの色が消えて、ゆっくりと別の表情に取って代わる。こんなにゆっくりな人だったか、と兎丸は怖くなった。自分の覚えている司馬と、目の前の司馬は少しずつ違う。こんなにちょっとの間に、僕の記憶は歪んだの? 司馬は困ったように微笑んでいる。
司馬が手を伸ばす。兎丸は首を竦めた。目を閉じた。ひんやりともせずに、司馬の手は兎丸の腹をつき抜けた。
「僕は、嫌なんだ。君に触れない僕は、嫌なんだ」
びくりと竦んだ兎丸に言葉を及ばせず、司馬が言う。聞いて、と一週間前まで、楽しい話をしていた調子、そのままに。
「僕はね、お役目が終わったんだ。向こうでね、おやすみしていいよ、って神様が言ったんだよ。だから、泣かないで」
兎丸は司馬を見て、目を瞑って俯いて、首を振った。
「知らない」
「知らない、そんなの知らないよ、神様? それ誰? どうでもいいよ。僕、大事な人以外は本気でどうでもいいの。会ったこともないもの、その人。しかも、僕から司馬くんとったのその人なんでしょう? なんでそんなやつの言うこと聞かなくちゃいけないの? なんで司馬くんそんな奴の言うこと聞いてるの? 信じらんない。だいっきらいだよそんなやつ。死ねばいいんだ、司馬くんの代わりに、そいつが死ねばよかったんだよ」
「ぴ、の?」
「ねえ、司馬くん。僕いいこと考えた」
ぴょん、とその名に合うように、兎丸が跳ねた。
神社は山の上にある。高い、高いところに。別段不自然も感じさせずに、兎丸はスタスタと歩いた。敷地の端へ。もう一歩踏み出せば、満月が泳ぐ、果てしない夜空。
「比乃……ッ」
「ドッジボールのルールだね、司馬くんが外野から戻ってこられないなら、僕が枠の外に出ればいい。そしたら、一緒にいられるよね」
「駄目だ……、そんなことしちゃいけない!」
「だーめ」
くすくす、と幼い笑い声が、静寂に噛み付いた。
「司馬くん、僕のこと置いてったんだから、お願いなんて聞いてあげない」
誰もいない神社の前。ただ命ないものが塩分と鉄分の結界の中に閉じ込められている。プツンッと、捨てられていたテレビのスイッチが入った。映し出されたのは金の髪。バックには多くの本が映し出されている。色も形もさまざまな背表紙だ。共通点といえば、公立高校の所有を示すシールが貼られていることぐらいだろう。
『ここに、方法があるはずなんだ。きっと、二人にまた会える……野球ができる……』
大きな本を抱えた男が、忙しなくページを捲りながら、何度も呟いた。月が傾き、テレビはまた闇を宿す。動くものはない。
命ないものだけが、その場の主役。