「子津ー、起きろって。なあ」
猿野くんが僕より先に起きてるなんて、珍しいことだった。
重い瞼を抉じ開ける。
猿野くんの顔が、目の前にあった。瞬く。まだ起きられそうにない。
「どうしたん……すか?」
「腹減ったー」
「うーん……」
仕方がない。
起き上がって目を擦る。ころりと、胸の辺りから何かが落ちる。障子を眺める視界の中でやっと寒くなってきた朝の空気が、襟首に滲みた。
「何があんの? 飯」
「昨日の残りが確か……」
答える途中でみっともなく大欠伸しながら見たそれは、猿野くんだった。
それだ。断じて、誰でも彼でもない。
それだ。
「ええと?」
「あ、このサイズにツッコミなしな? そういうことになってっから」
「そうなんすか?」
「そうなん」
マジメな顔で、掌サイズの猿野くんが僕の掛け布団の上に胡坐をかきながら頷く。
寝巻きに使っていたんだろう、水色地に青い縦線の入ったジャージを着ている。
人形のものにしては縫製がしっかりして見えるから、たぶん一緒に縮んだんだ。そんな観察をしながら、僕も一緒に頷いた。
許されるなら、ぼうっとしたくなる。ちょっとばかり、今日1日ばかり。
「でさ、オレ腹減ったんだけど」
「鳥の餌でいいんすかね?」
条件反射だ。寝ぼけていたとも言う。妹が友達の家の小鳥が産んだという雛を欲しがって、家族みんなで検討している最中だったから。昨日寝る前に暇つぶしに手にした小鳥の飼い方の本が、まだ枕元に転がっている。
猿野くんが、思い切り僕の手を踏みつけた。
「ッ……」
その形相と力の入れように、ものすごく痛いような気がしたけど真実はそうでもなかった。靴も履いていなかったし。指の先で、思い切り押したぐらいだ。ツボに効きそうではある。
けれどそんなことがバレようものなら噛み付かれかねないので、一応痛い振りをしておいた。
「普通のご飯で、いいんすよね?」
「当たり前だっつの! このオレさまをチキン扱いしやがって!」
僕が連想したのは小鳥だし、それにしたって鶏の方がまだかわいい。そもそも普通の動物ならばまず初めにこちらに飼う飼わない、世話するしないの選択権がある。
「それとも、お前オレを飢え死にさせる気か?」
おそらく胡麻3粒分くらいの大きさの目で、猿野くんが僕を睨む。
「とんでもないっす」
たとえこれが夢でもそんなことは出来ない。
僕は慌てて立ち上がり、その勢いに猿野くんがころりと後ろへ転げた。
ちゃぶ台の上に座り込んだ猿野くんが、おにぎりのように4つ5つばかりの米粒を一気に抱えて、口をつけている。いっぱいに頬張っても少しずつしか減らない様が、小動物のようで可愛い。
本人は必死みたいだけれど。
「米だけで腹いっぱいになっちまう……」
げんなりとした呟きのあとに、げっぷが1つ。
「でも、その体じゃあ調味料が少し入っただけでも怖いっすよ」
伊達に弟妹をたくさんもってはいない。小さな生き物に、味の濃いものを食べさせてはいけないのだ。かといって、猿野くんの体に合い、尚且つおかずになるようなものは思いつかないし。
この状況が長引くようなら、それもおいおい考えていこう。
「ネズッチュー」
米を抱えたまま、猿野くんが僕を見上げている。ああでもないこうでもないとレシピを頭の中で練り上げては壊していた僕は、首を傾げて意を尋ねた。
「食ったらさ、出そうなんだけど」
これが夢だったら、僕は自分の想像力を軽蔑しよう。
ともかく、水洗便所に一緒に流されてしまいそうだから、普通の方法は却下。鳥やハムスターのトイレを買ってきても、猿野くんだって僕に排泄物の始末をされるのは嫌だろう。
それに問題なのは、今この瞬間みたいだし。
僕はこのときほど自分の出自を感謝したことは人生でなかった。
差し出した手のひらに乗っかってくれた猿野くんを抱いて台所からガラス戸をあけ、廊下の角を曲がる。縁側に通じる障子を開けた。
長方形に揃えられ並べられた板の上にしゃがんで、手を縁側の下へ降ろす。初めは飛び石の上におき、考え直して直接地面の上に降りてもらった。この様子じゃ、飛び石から飛び降りる作業ひとつも大変だろう。
なるほど、と猿野くんが呟き、紫陽花の丸い葉の陰に消えていく。
自分が庭付き一戸建ての家庭に生まれていて、本当に良かった。
思わず、空を仰いで運命に礼を述べる。
てとてとと音のしそうな足取りで猿野くんが帰ってくきた。手を地に広げて待っていたのに、なんだか躊躇っている。片足を上げて、自分の足裏を見ていた。
「……あ、大丈夫っすよ。洗えばいいんすし。ティッシュの方が簡単すかね」
「そっか」
ぴょんと飛び乗り、運命線と呼ばれる辺りに猿野くんが腰を降ろす。足をつけられたところが、ほんのちょっぴりだけ泥に汚れていた。2、3度掃えば済むようなものだ。
居間に戻り、ちゃぶ台の上に降りてもらって僕はティッシュを濡らしてくる。
小さく千切って渡した。まだ大きかったらしい、比率的にはバスタオルぐらいのサイズのそれで懸命に足裏を拭いている猿野くんは、妙に動きがミニマムで思わず眺めてしまう。
「終わった」
「はいっす」
1mぐらい離れたゴミ箱へ、ぽい。万が一猿野くんが落ちて気付かなかったらと思うと怖くて仕方ないから、そのうち蓋付きゴミ箱を買ってこようと思う。
「……疲れた」
「慣れないっすからね」
体力自慢の猿野くんが、心底から呟くようにため息をついているのを見ると可哀想に思うけれど、こればっかりは僕もそうだからなんとも出来ない。
早く慣れればいいっすね、とは常識が邪魔して言えなかった。かといって、早く戻るといいっすね、とも言いづらい。
だんだんとこういう生き物な気がしてきた。正直……あれこれ世話するのが、なんだか楽しい。内緒だ。自分でもちょっと酷いと思う。
すこし、落ち着いた。
相手を観察する余裕が出来る。だらりと伸ばした足も、上体を支えて後ろにつく手も、堅そうな茶色い髪も、意思の強さをあらわす眉も、悪戯とか嫌がらせのときばっかりキラキラ輝く目も、それにかかる前髪も何も猿野くんのものだ。ただ小さいだけ。計ってはいないけど、たぶん全体で10cmくらいだろう。
胸ポケットに入るサイズだ、とちょっとその様を想像して魅力的に思ったのだけれど、そんな運び方はどうしても猿野くんに負担はかかるように思えて諦めた。こんなに疲れて、憂いた顔でさっきから視線も上がらないほどだし。
……いつかそのうち機会があれば、とはちょっと思う。
気がつけば、寝そべった猿野くんが両手両足を伸ばしてころりころりとちゃぶ台の上を転がっている。きわどい端まで行くので、いつ落ちるかと見ているこっちは気が気じゃない。
もちろんちゃぶ台とは足の短いもので、正座した僕の胸の高さほどもない。けれどここから落ちたら、一体どのくらいのダメージなんだろうと想像つかないのが、また恐ろしかった。
「ひーまー」
そんな僕の不安とはお構いなしに、猿野くんにとっては不満を伝えるデモンストレーションであったらしい。
「どっか連れてけよ」
無理を言う。さっきまで疲れてたくせに。
「今外に出たら、UMA扱いになるかもしれないっすよ。解剖されたいんすか?」
「子津っちゅー、例えがグローい」
そっぽを向いてしまったということは、納得したらしかった。
それにしても自分だって笑いのためには矢でも鉄砲でも喰らってみせるくせに、人にグロいだなんて。確かに、怖い例えを選んだけれど。
「じゃあ、オレずっと家の中のわけ?」
「……長引くようだったら、考えて出てみようっす」
まずはうちの店先を覗いてみるところから始めてもらおうか。マスコットみたいに帳台の上なんかでじっとしてくれてたら可愛いかもしれない。……じっとしてくれるわけないか。
「することがないんだったら、お風呂なんかどうっすか?」
「風呂ぉ?」
「ちょっと考えてみたんすよ」
「微妙に思ってたんだけどさ、お前ちょっとこれ楽しんでねえ?」
……。
「まさか」
「あっやしいー」
さらに追求される声から逃れるように台所に立つ。
藍に白で波が型抜いてある暖簾をくぐったところで、両頬を手で抑えた。あからさますぎてただろうか。
仕方ない、誤魔化せるだけ誤魔化そう。ともかく今は、お風呂の準備だ。
踏み台を使い、天井に備え付けられている棚を開ける。普段は使うことない食器ばかりはずらりと並んでいて、去年の虫干しからそろそろ1年経とうという今では微かに埃の匂いもした。
暴れられたら怖いから、陶器は止しておこう。
悩んだ挙句、黒の漆塗りの底の深い椀を取り出した。中は赤地に白の桜が散っている。お湯をいれたら血の池地獄みたいに見えるかもしれないけれど、たぶん猿野くんはそんなこと気にしないからよしとする。
少量のお湯を、薬缶に注いで火をつけた。
続いて、米のとぎ汁は品質が悪くなったと祖母が漏らすので、最近購入することになった洗剤をスポンジに垂らし軽く揉む。
小さなころは良いこともないのに、どうして洗剤を使う人がいるのだろうと思っていたけれど、最近になってやっとわかった。たぶん、この白い泡が無邪気に立つ様子が、汚れの落ちていることを実感させて楽しいのだ。
思いながら、自分でも微かに浮きたつこころを抱えて、お椀を磨く。元々目立った汚れはみられなかったけれど、軽く泡を張ったのちに漱げば、なんとなく綺麗になったような気がした。
手近な布巾で水気を取り、ふと気付いてもう一度高い棚を覗きこむ。
コースターは、緑の斑のどんぶりの奥にちんまりと積み重なっていた。猪口は茶色の急須の陰に。取り出したそれらも洗い拭ってから、通常の食器台の脇に並べられていた盆の上に、揃える。
薬缶が鳴いた。
沸いた湯を椀の中6分目ほどに注ぎ、コップには水を注いで盆に添える。足りないものがないかを確認してから、抱えて立った。椀の中の湯が頼りなく揺れるものだから、片手を離すのも怖く、視界の邪魔をする暖簾は頭の動きで振り払う。お勝手内だから出来る行儀の悪さだ。
猿野くんのいる部屋に通じる障子の前で膝を突き、盆を置く。両手で開くと、どうやって降りたのか、ちゃぶ台の足の傍に猿野くんが寝そべっていた。
「風呂?」
起き上がることもなく、気だるそうに、そう声を投げかけられる。そうっすよ、と盆を部屋に招き入れて障子を閉めながら答えた。
「オイキタロウ!」
素っ頓狂な声に、一瞬口をあけてから気付き「確かに目玉のオヤジの風呂道具っすけど……」と返した。気付かない方が不覚の、そのまんまの光景だった。
「ヨウキヲカンジルゾ、気ヲツケルノジャ!」
「妖気を感じるのは鬼太郎の方じゃなかったっすっけ?」
「いや、親父も感じるだろ。妖怪だし」
曖昧模糊として一向にはっきりしない記憶に、応答の声がへにゃりと潰れる。生返事というやつだ。 コップの水を椀の中に注ぎ、水面に軽く触れた指で猿野くんを手招く。立ち上がって、こちらへ向かってくる彼のために猪口を逆さにして椀の脇へおいた。踏み台代わりのつもりだ。
あ、うっかり猪口は陶器を持ってきてしまった。たぶん、大丈夫だろうと戻る労力を無意識に惜しみ言い聞かせる。猿野くんは別段暴れることなく、踏み台に足を乗せて椀の中を覗き込む。
「おー、湯気」
「そりゃお湯っすから、湯気ぐらい立つっすよ。お湯加減見てくれるっすか?」
いくら僕が触ってみても、感覚が少しばかり違うだろう。袖の捲くられた細く小さな腕が、湯に差し入れられた。
「んー、適温?」
「大丈夫そうっすか? 熱かったりは?」
「オレ江戸っ子だから平気」
三代続けて埼玉に住んでいると自慢した人が何を。
ともかく、湯加減は悪くないらしい。「入っていいんか?」との問いに頷くと、たちまち人形のそれのような服が辺りに散らばった。得意の衣装変化はこういう脱ぎの早さにも関わっていそうだ。
そのまま足を湯につけようとする猿野くんに
「あ、これを踏んで入ってくださいっす」
と、木製で、四角の角がまろみを帯びたコースターを水面に浮かべた。
「お椀は底が曲線になっていて、入りにくいと思うっすから」
プチ五右衛門風呂形式だ。とっさに、母の田舎での慣れない体験を思い出してよかったと思う。
「ほー、なるほど」
コースターごと猿野くんが沈む。ほんの少し、湯がお盆の上に溢れた。
浸かった様子は少し浅く見えるけれど、一応肩までは入っているし椀の側面に背を預けて腰掛けられもしている。流行らしい西洋風の浴槽もたしかこんな風に浅く広かった。特に文句も出ないところを見れば、これ以上の工夫の必要は必要ないだろう。
「じゃあ僕、石鹸とかとって来るっすね」
「出て行く振りして、明美の風呂を覗かないでね!」
削った石鹸に、ほんのちょっぴり出したシャンプーとリンス。そしてタオルの切れ端を揃えると、即席のお風呂の心地は中々悪くないようで安心した。
さきほど湯を足した椀の中からは鼻歌すら流れてくる。
「猿野くん」
「んー?」
タイルによるエコーがないのが不思議なくらいの、リラックスした声。
僕はしばらく躊躇い、そして
「もし、長く続くようでも、僕が必ず治してあげるっすから。安心してくださいっすね」
振り返った猿野くんは、驚いた顔で暫く黙っていた。
治してあげる、だなんて。自分だって非現実的な言葉だとわかっている。どうやって治すというんだ、こんな理由すらわからない現象を。
けれど、そうして、あげたかった。一寸法師の木槌を探しに行ったっていい。初めの驚愕や、ちょっとした発見の喜びは既に形を潜めて事の重大さだけが胸に沁みる。
僕でさえ、こうなんだ。当事者である猿野くんはどんなに心細く思っていただろう。遊び半分だった自分を、いまさら心から悔いた。
「わーってるって。お前が治してくれんの、信じてんぜ」
緩く笑みすら浮かべて、猿野くんが言う。
「なんか色々やってくれるし、考えてくれるし、頼れんのがお前でよかった」
夢はそこで醒めた。
「……………………………」
目覚めた自分の部屋には、もちろん小さな生き物などいなかった。手慰みに眺めた、小鳥の飼い方の本が枕元に転がっているだけだ。……たぶんこれに影響されたんだろう。
今見たもののことを深く考えるのは、あまりにも寝起きの頭にダメージが大きすぎた。とりあえず自分の想像力を軽蔑し、都合の良い思考展開をどうにかした方がいいと頭痛がするほどに悩む。
朝日は差し込んでいるけれど、僕の目の前はまさに真っ暗だった。夢が忠実に自分の願望だとしたら、蛇神先輩に水垢離の仕方でも教えてもらうしかない。切実に頭を冷やしたかった。
そこまで考えて、あれは2年前をモデルにした夢だったとふと気付く。僕らは、1年生の姿をしていた。この点からしても、絶対に分析されたくない夢だ。日記にも書かないで、胸の中にしまっておこう。出来れば忘れてしまいたい。
何も考えたくないような、考えなければいけないような、悩む間に何時の間にか通学路を歩いていた。習慣の力というのはすごい。
けれど果たして、この調子で主将業務が果たせるだろうか。今日だけ辰羅川くんに代理をお願いした方がいいかもしれない。むしろ自分の道徳倫理を顧みる点から、ずっとお願いしてしまいたい。どうしてあんな夢を見る僕で、牛尾先輩の後が継げるだろう……。
ふと、何かが、意識に入り込んできた。
小鳥の鳴き声? いや、何かが違う。なんだろう? 耳を澄ませる。鳥の声ではない、なんだろう……ふ、とめぐる視線が、アスファルトの上で固まる。
「子津! オレだオレ!」
小さい猿野くんが、大きく手を振っていた。その声は蚊が鳴くほどに小さい。
よく考えてみれば、体が小さいものは、声が小さいのが当たり前だ。それを意識しなかったあの夢は、まさに夢で妄想で想像で、じゃあ、今喋っているこれは?
「いやマジ悪戯とかそんなんじゃねえんだよこれ! 朝起きたらいきなりこんななってて、すげえビビったし! お袋には味噌汁で煮られかけるし! 沢松に話しかけてもこの声じゃ気付きもしねえし! いやでもバッグにひっついてきて助かった、ねーづ、聞いてるかー?」
「……ぅ」
「は?」
「……ち出の小槌……どこにあるんすかね……」
「へ、なんだって? 夢じゃねえし何ぶつぶつ言ってんの、は、どうしたんだよネヅッチュー!? おーい!」