重い瞼をこじ開けると、一人になっていた。
 無意識に猿野くんを探して伸ばした手は、ベッドのシーツに包まれているだけだった。同じベッドに寝ていたのは別に泊まらせてもらってる主将の家でそういう行為に及んでいたわけじゃなく、猿野くんが広すぎるベッドで落ち着かないともぐりこんできただけというむしろ色気のない話。
 起き上がって、ベッドと同じように広すぎる部屋を見回すけど、使われた跡のない隣のベッドと、やっぱり高そうないくつかの調度品を除いて影はなかった。
 壁掛け時計は五時を知らせている。猿野くんがたたき起こされずに起きるには少しばかりというか、だいぶ早すぎる時間だ。何かあったんだろうか。
 耳を澄まして様子を探ろうにも、早すぎる朝は静まり返っている。
 床に足を下ろした途端伝わる冷たさに飛び上がり、あわててスリッパを探した。そう変わったことでもないのだろうけど、普段畳で生活している身としてはやはり慣れない習慣だ。
 鞄の上に出しっぱなしにしていた上着を羽織って、目に付いた猿野くんの上着も手に持つ。
 案の定、捻ったドアノブも冷たかった。押し開けたドアの向こうの、長い廊下の空気は静謐といっても良いほどで、寝巻きのままのこともあって体を小さくしてしまう。主将と、一緒に泊まりにきていた獅子川先輩もまだ寝てるんだろう。
 まるで世界に僕しか生きていないみたいだ。
 部屋を出た、長い廊下の突き当たりは窓だった。窓、というか床から天井まで広がるそれを開ければ、広い牛尾邸の庭園に出れるはずだ。
 朝特有の靄が濃くて、ガラスの向こうはよく見えない。
 猿野くんが庭にいる理由など何もないけれど、どうしても硝子戸の向こうが気になって、開けてしまった。
 一年中咲いているばらが屋内へ冷たく沁み込んで来る靄とともに目の前へ広がる。
 主将の趣味なのか白や淡い色が多い。それだけに白く細かく濃い水に紛れてしまいそうだ。
 広がるテラスの段差を、右へ斜めに越えると、ばらが割れて小さな道になっている。誘われるように辿る。
 ばらのグラデーションは淡いながらも桃色から紫色へと移り変わっていった。このまま行けば、最後は青だ。そんなはずはないと、さすがに知っていたけれどそれを想像した。この道の終わりに、大きな青いばらが咲いている。
 けれど僕は、青いばらに行き着く前に立ち止まった。
 猿野くんらしき影が、道の真ん中で(といっても、端も真ん中もないような小さな道なのだけれど)しゃがんでいた。
 その顔や目線の方向は、靄の向こうにうっすら隠れてしまっている。
 声をかけようと、上げた腕の袖口が濡れていた。探し人に気をとられてうっかり花にぶつけてしまったらしい。つめたい光を浴びて、朝露を含んだばらの群れはきらきらと光っている。
 まだ朝日は遠くで淡く輝いているだけだ。みなが起きだす朝には早い。
 けれど僕はちょうど、夜と早朝の間に立っていたらしかった。
 ゆっくりと、太陽は空を昇る。ばら畑の端に引っかかっていた太陽のその面がすべて大地へ曝れると、薄靄に翳っていた猿野くんの顔がはっきりした。
 1人でばらの中にしゃがみこむ猿野くんは笑っても泣いてもいなかった。
 笑っても泣いてもいない顔でじっと、行儀よく他が背をそろえて並ぶ中、なぜだか1本だけ低いばらを眺めていた。そんな猿野くんのささやかな(声にもならないぐらい)問いかけに答えるように、じいっとばらも猿野くんに顔を向けている。
 まるで、同じもののような一人と一本だった。
 笑ってもいない泣いてもいない真剣な顔でもない猿野くんはとても珍しい。それどころか、懸命に記憶の底を漁るけれど見覚えがなかった。
 初めて見る猿野くんに、ぼくはばらの中で立ちすくんでいた。
 声が、かけられない。
 あの世界には、猿野くんとばらしかいない。ぼくは、あそこにいない。

(猿野くんは、僕のしらない、行けないせかいにあのばらといるんだ)

 太陽は1度昇ると、容赦なく全てを照らし出していく。ばらと2人きりの猿野くんも、それを情けなく見守る僕も。
 気付いてほしい。僕を見て欲しい、知らない顔をしないで、知らないことを考えないで。
 身勝手な願いが、太陽に曝け出されていく。逃げ出してしまいたかった。部屋に戻って、気付かずに寝ていた振りをしたかった。
 けれど僕の手には、部屋から持ち出した猿野くんの上着がかかったままで、それに囚われたように動けない。
 どれくらいそうしていたのか。
 やがて猿野くんが隔てられた世界の境目を、こちら側へ飛び越えてくれた。
「……はっ、ぶえーっくしょん!」
 館まで届くかと思われるほどに大きなくしゃみをした猿野くんが、ずびと鼻を啜る。
 うー、さみ。と呟く顔は、見たことがあるそれだった。僕は肩を震わせて、破れた世界の隔たりに息をつく。
 知らないせかいを忘れようと、僕らの世界に戻ってきてくれたのだと確かめるように、深呼吸した。
 一歩踏み出す。
「猿野くん、何やってるんすか」猿野くんが振り返る、「風邪引いちゃうっすよ」
 精一杯、微笑んでみせる。さも、心配の挙句に今見つけたかのように。
 猿野くんも笑った。戻ってきてくれたのに、まだそこには見知らぬ世界の残滓が残っていて、歪んだ顔は泣きそうにも見えた。
(僕の知らないことで?)
 もう消えたはずの見知らぬ世界を恐れて、後ずさりそうになる情けない自分を手に持った上着を渡すためという言い訳で叱咤して、また一歩踏み出す。
 僕の意図に気づいた猿野くんの腕が、近づいて大きく見える。
「サンキュ」
 温みを求めて上着を抱きしめながら、猿野くんが口元を緩ませた。
「何やってたんすか?」「なんか目が覚めちまったんだよ」言い訳に、緩んだばかりの口が尖る。
「すっげえ、さむかった」
 猿野くんは、そう言いながら、さきほどまで見詰め合っていたばらに目をやった。
 それを一緒に覗き込もうと、横に並んで
「……」
 結局、僕は猿野くんを見つめていた。
 猿野くんの、右頬。ちょうど、涙の通り道に、雫が。
 それが涙でないことなんてわかってる。それは、寒さに大気を追い出されてばらにはりついていた水分だとわかっている。猿野くんのものじゃない。
 けれど、どうしてか、それはさっきまでの猿野くんが、泣いていた証明に思えて。
 不自然に固まった僕に、猿野くんが目をあげる。
 頬に注がれている僕の目線に居心地悪そうに手をやった。短く切られた爪が雫をひっかき、線を描く。それでも水滴は潰れずに形を保って……まるで流れ星とその尾のようだった。
 頬に星を流したまま猿野くんが「どした?」と訝しげに僕へ首を傾げる。
 それは、衝動だった。
 なんの考えもなかった。猿野くんへ答えず、僕はその頬へ手を伸ばす。見慣れたマメだらけの親指の下で雫が潰れた。ゆっくりと拭う。
「……子津?」
 とうとつな僕に、まだ頬に残る水跡を拭いもせずに、猿野くんが目を丸くする。
 僕はさっきみたく、もういちど微笑んで
「滴、ついてたっすよ」
「ああ、わり」
 何もないそこを確かめるように、猿野くんが頬を拭いなおした。
 そして「腹減ったーっ」と薄空に叫ぶものだから、「朝だから静かにしてくださいっす!」と僕は慌てた。まったくいつも通りの僕らだった。
 未だ明けきらない空とぼくの指先の冷たさだけが、知らない世界の余韻を残していた。