自らの両手で包むように持った、湯気の立つカップを眺めていた子津が言った。
 ソファに腰を降ろし、テレビを見ながら昨日あまりの勢いに雨宿りをした店のクッキーを摘みながらオレは
「は?」
 首だけ振り返り、聞き返す。
 昨日まで振り続けた雨は明け方止んで、窓の外のポプラが重そうに雨だれに撓っている。その向こうの、煌かんばかりの青空はどこまでも広がり。日ごろの行いがいいのか、さすがにそろそろ晴れるだろうと傘を持たずに出歩いていたのにオレは風邪一つひいてない。
 また、夕方から振り出すと、ブラウン管からお天気お姉さんの声が響く。
「たとえばどんなに雨が降りそうな日でも、君は傘なんか持って歩かなくていいんすよ」
 空は青い。けれど、もうその端から灰色が迫ってきているらしい。雪と見まごう、重い雲。
 窓の外からクッキーに目を戻し、もう1枚摘み上げる。クッキーの袋の向こうに、ソファの色が透けていた。
 子津が選んだソファはくすんだ、はっきりしない茶色をしていて、クリーム色の壁とよく合う。壁から延長した、同系統色でちょっとだけ濃い色の天井には、灰色のタバコの後。
 目を落とした、扉なしで続くダイニングの椅子に座って、子津がコーヒーに口をつけている。
 いつからだったか、棚にミルクは買い置かれなくなっていた。
 オレはコーヒーを飲まない。しょくいんしつのにおいがする、と思った。母ちゃんもコーヒーは嫌いで、子津がコーヒーを飲む度に慣れない頃はその度に職員室くせえと辟易してた。
 もう、コーヒーは子津の匂いだ。
「携帯と、お財布だけ持っていって」
 子津の言葉を聞きながらポリ、と前歯を立てたクッキーが鳴った。美味くて評判の店だったのに、子津の作ったもんの方がうめえと思うのは、一晩置いたか、焼きたてかの違いなんだろう。間違っても欲目とは言わせねえ。
 晴れた休みの日のキッチンは、甘い匂いが漂ってるのがいつもだ。男2人暮しでぞっとしないとは思うが、美味いんだからしょうがねえ。
 今もその残滓はきっと残っていて、けれどわからずバターと砂糖の交じり合った匂いを求めて深呼吸をした。やっぱり、なんの匂いもしない。
 けれど犬飼が来ると、「甘い匂いがする」と眉を顰める。あいつは犬だから仕方ないのかもしれない。
「雨が降ってきたら、雨宿りしながら、僕を待っててくださいっす」
 子津が幸せそうに笑う。何を考えているのか、オレにはわからず、その笑顔は気に入らない。
 そんなもんで笑ってる暇とかあるんだったら、ひたすらオレの世話を焼いてりゃいいのに。オレの言うことにツッコんで、バカみてえに笑ってりゃいいのに。
 カップの向こうで、子津が1人で、幸せそうに微笑んでいる。その顔に向かって、クッキーの袋を投げつける。
 それは子津の顔に当たり、無残な音を立てて床へと落ちた。
「んなこと言うんだったら、はじめから一緒に来りゃいいんだよ」
 瞠った目が、楽しげに細められた。湯気と一緒に、子津の笑い声が天井に立ち昇る。