「明美おトイレ行ってくるわぁ〜覗いちゃい・や・よ。いいものあげるから、大人しく待っててね、ダーリンたち☆」
穴があいた。緊張し、張り詰めた空気に。
猿野が投げキッスを残して、扉の向こうへ身を翻す。8回裏、ワンアウト二塁。この状況でトイレってどういうことだ。せめて黙って行け。そもそも打順お前まであと二人しかいねえだろおいおいおい。奇行に慣れているはずの三年生たちまでもが通夜のようにしんと視線を扉から動かせない。追うように立ち上がったのは子津だ。安堵のためいきが、ベンチをゆるやかに満たす。
「僕も、トイレ行ってくるっす」
はい?
助け舟と思いきやオールに後頭部から突き落とされ、「ブルータス、あなたもですか……」呟きながら、ネクストバッターサークルから振り返った辰羅川は、くらりと膝を崩した。『二番、キャッチャー・辰羅川くん』。三番打者四番打者が揃って便器か小便器と再会すべく姿を消した今、しばらく空のまま放置されるだろう円が、悲しげにその項垂れた背を見送る。
「猿野くん!」
「あらやだ子津っちゅーおっかけてきたの? 明美連れションて趣味じゃないんだけど……まあ子津くんならしょうがないかなぁ〜」
ほほほほ、と笑い声が上がる。手の甲はその頬にどことなく女性的な指使いで貼り付いていた。それを引き剥がす手は、水にひたしたように冷たい。
「――さっきの?」
その温度を吸い取ったかのように、手首は熱く、真っ赤に腫れあがっている。内角へ抉りきれずに相手打者に真っ直ぐにサードに飛ばされた球を猿野が捕ったとき、嫌な音がマウンドの子津の耳に貼り付いた。自らの失態の引き起こした痛々しさに唇を噛み、バレたか、と零れた舌を見据える。
「はやく、監督に」
「冷やしときゃどうにかなんだろ」
「無理っす!」
こんな会話、今までに何度あっただろう。無茶をする猿野、止めきれない自分。うんざりだ。この事態だって、自分の制球の未熟さが悪因だというのに。
「平気だっつの。お前心配しすぎ。今までも大丈夫だったんじゃん」
「そんな……ッ」
そうだけど、そうだけれど。自分の失態のせいで無理をさせたくない。ただの我侭だとわかっている。それでも自分が原因で苦しむ猿野を見るのは、たとえ何度起ろうとも、慣れない。
「お前のせいじゃねえし。それに、今オレが降りたら誰が出んだよ。二年かよ? 一年か?」
「それは……それは……」
猿野が今降りれば、サードランキング二位である二年生が出ることは必定だ。しかし、守備はともかく打撃など、後輩が猿野に及ぶはずもない。いやどこのポジションにしろ、猿野の長打力を代われるものなどいない。
「な、あと二回で終わんだからよ。ダイジョブだって」
「だけど」
否定の言葉は、弱弱しく零れ落ちる水滴のようだった。具体的代替案のない否決など、子供の遊びと同じだ。たしかにその点で言えば、たしかに取り返しのつかないことを前に呆然としている子供と、そう変わりはなかった。
「オレとお前の秘密、な?」
力が緩められた右手から、猿野が手を外す。俯き、影になった子津の顔を覗きこんで、両腕を広げた。汗に湿った肩を、抱き込んで笑う。
「なーにシリアスになってんだって。オレがこんなことでへばるわけねえだろ? オレに打たせたくなかったら、お前がさっさと終わらせろっての! 延長なんかしたら、コンビニでエロ本を買ってくるといういまどき中学生でもやらねえ羞恥プレイ地獄に突き落とすかんな」
項垂れる自分に、お前だけのせいではないと、きっと猿野は言いたかったろう。それを飲み込んで、こうして笑ってくれる。背中にきつく回された手首にうかされたようだ。
目蓋が、熱い。