溝に溺れて

 僕には今を失う勇気がない、今以下になることに、耐えられない。そういう、弱い人間だ。


 さっきまで忙しく打たれていた猿野くんの寝返りは少し前から静かになった。残るのは時折の鼾と、歯軋り。眠ってしまった、と確信するとふうと息が抜ける。握った手が汗ばんでいるのが自分でも気になっていて、起きているのかと猿野くんに訊かれないのが不思議なくらいだった。もしかしたら、猿野くんだって緊張していたのかもしれない。
 どれもこれも、全て薬の効果なんだと大げさに言い聞かせようとしている自分が、そうわざと遠巻きの振りをして、そんなことを考える。薬の効果だから、そんなことがあったって、不思議ではないし、それだけに大したことではないと。
 けれどそれは所詮裏返しだ。これが薬の効果だけでないと、信じたい自分が強すぎることの。
 脈があると思えるならば、すぐにでも告白したいと叫んでしまう心がある。無理だ、無理だと、これ以上失う気かと諦めろと、臆病な心が叫ぶ。友達の振りをしていろと。
 僕が起き上がって、布団から身体をそらせ寝顔を覗き込んでも、その睫はぴくりともしなかった。寝ている。そう、また確信する。何度も。起きていたらと思うと怖すぎて、何度もその可能性を浮かべては打ち消している。
 豆電球が鼻筋や唇に、やわらかな陰影をつけていた。
 僕はただ見下ろしている。時間はじりじりと過ぎている。猿野くんは起きない。僕は何もせずに、その寝顔を見ている。
 いとしくて、いとしくて、これだけのことだけれど、いまが永遠に続いていけばどんなに幸せだろう。暗さも、寝癖も、なにもかもがかなしいほどにいとしい。
 過ぎた幸福に顰めた眉の下で、鼻の奥がツンと痛んだ。誰かが見たら、泣きそうに、見えたに違いない。
 欲しいものが手に入らなくて、ないている子供に、きっと似ている。15にも、なって。 
 そうだ、ほしい。これだけで幸せなんて、嘘だ。ぼくは猿野くんがほしい。
 ぎゅうと、手を、強く握り締める。猿野くんは目覚めない。くちびるに、ばかり目がいった。
(いまなら、告白できるかもしれない?)
 そうっと、顔を近づける。息がかかるほどそばに。こんなに近くでなんて、初めて見た。でもおきても、いまならこの距離でいられるかもしれない。ぼくは日常の破壊を恐れる自分から、ぬけだせるのかもしれない。
 ――ちがう、ちがう、ちがう。
 目の裏を、熱い何かが込み上げるのがわかった。
(これは勇気なんかじゃない)
 いま猿野くんに告白することは、いま猿野くんに思いを打ち明けることは、卑怯者でなくなることじゃない。卑怯者のすることだ。片思いを忍び続けて辛いと思ってしまう部分が、辛いのはいやだと、薬が作ってくれたこのやさしい嘘に紛れて告白してしまえと言い張っている。無理をしてでも、何を失ってでも、反則でも力ずくでも彼がほしい自分が、それを後押ししていた。
 でもちがう、これは、勇気なんかじゃない。僕がなりたかった僕じゃない。
 僕は、猿野くんに相応しい、卑怯じゃない強い人間になりたかった。いま告白することは、強さじゃない。弱いごまかしだ。
 覗き込んでいた身体を起こす。零れる涙が猿野くんにかからないように。
 けれど、握った手が離せない。いつまでもこの力強い手を握り締めて、傍にいたかった。
 ずうっと、傍にいたかったんだ。そう願っていたんだ。いっそひとつになってしまうぐらい、傍に。
 揺れた体の拍子に零れた涙は、僕の布団と猿野くんと布団の間に落ちた。それはただの先走りで、あとからあとから、最初の一粒などものの数でなくなってしまうぐらいに、頬から顎へ伝い、布団の溝の畳に薄い闇の中で水がいっそう黒くしみこむ。くるしい、と思った。何がくるしいかもわからないまま、こころが、くるしい、と悲鳴を上げているのが、ようやくわかった。
「……っく、ふ……っ」
 どんなに噛み締めても嗚咽は歯の間から零れ落ちる。喉が痛い。猿野くんの手を離せないまま右手で目を擦る。どんなに擦っても涙は止められない。
 僕と猿野くんの溝に、涙が溜まっていく。
 けれど、どんなに涙で溝が埋まっても、その上は歩けず、僕は永久に向こう側にたどり着くことはできない。いっそ足を踏み出して、溺れながら眠りにつきたかった。