白い海、赤い砂

 もう少し寝かせておいてほしい。
 無理やり覚醒されようとしている意識を引き止めるように頭が痛んだ。うつらうつらと眠気の間にうかんでいた自分は徐々に上の方に引き上げられる。開く瞼が手で抉じ開けたくなるほどに重い。
「――猿野くんっ?!」
 見知った顔が今にも鼻と鼻が触れ合いそうな間近で泣きかけていた。
「……づ……」
 出そうとした声は口の中に詰まる息になってしまって、言葉を伝えられない。喉がただの空洞になってしまったかのようだ。よかった、と涙目で子津は繰返している。
 包み込む空間はちいさな部屋だった。オレが寝ているベッドの傍に、おおきくないチェストと、子津が座る丸椅子がひとつずつあるきり。キャンプ場のコテージのように壁や家具のひとつひとつがうそ臭い、白っぽい木目で覆われていた。
 あたりを見回しながら、ぼうっとしている自分の存在を確かめようと、無意識に動かした腕がひどく痛む。視線を移すと、見慣れた私服を着ているのがわかった。思い出せたわけじゃない。
「落ち着いて」
 うめき声に慌てた子津が痙攣した手を抑える。まだ動かしちゃ駄目っすよ、じっとしててくださいと言い聞かせる声は前後がわからないだけにやけに現実感がないけれど、痛みから逃れたい一心で考えもなしに従った。
「腕のほかに、どこか痛むっすか? 頭は?」
「ぃ、てえ」
「どういう風に?」
 言われたって、言葉にしようがない。枕に後頭部をつけたままでは首を振るのも難しく、わずかに顎を左に背ける。
「薬は? 飲めそうっすか?」
 わからなかった。乾いているか、満たされているか、その感覚が無い。鏡もない今、喉がなくなってしまっているといわれれば納得してしまいそうだった。
 それ以上尋ねはなく、愛らしい水音を立ててベッド脇の棚で、水がコップに注がれる。
 右腕を動かさないように、そろそろと体を持ち上げる。気付いた子津に手助けされて壁に背を預けて上体を起こした。促されて開けた口に白い錠剤が放り込まれ、続けてコップの縁が唇に当てられた。
 そろそろと伺うように咥内に流れ込んでくる水は甘い。
 あとのほうに滑り込んできた幾分かが気管に張り付いてきた。咽るとごつごつした手に背を撫でられる。あたたかい、人の体温だ。どこかで安堵しながら、その反対側では涙を滲ませる涙腺の動きにすらうっすらした痛みを感じる。咳の反動で、腕が傍のチェストに当たり、すぐにそれどころの痛みじゃなくなったけど。
「僕、食べるもの持って来るっす。難しいかもしれないっすけど、一口だけでも、試してみて」
 懇願とも指図ともつかない口調で、オレが落ち着いたのを見計らった子津が言い置く。きい、と白肌のドアが音を立てた。ドアを開け放しで子津が廊下と思しき場所へ出て行く。様子を伺うためだろう。そう理解しながら痛まないほうの腕で、痛む頭を抑える。――ぬるり、と思わぬ感触がした。
 どうして、オレはこんな理不尽な痛みにあってるんだ?
 降ろした手が真っ赤に染まっている状況から逃れたい衝動が、ここから、この場所から逃れたいという悲鳴を上げた。足をベッドからそろそろと降ろす。幸いそこに強い痛みはない。けれど見ると、かすり傷がいくつかあった。
 やっぱり木目で覆われた廊下に出て、子津がかちゃかちゃと食器の音を立てている、突き当たりの台所を窺いながら素足を別方向へ忍ばせた。
 ドアをふたつと階段をひとつ越えた先に、土間と、たぶん外に続いている扉がある。
 土間に子津の合成皮のサンダルとともにおかれた青いビニール製のビーチサンダルは見慣れたもののはずだった。服同様に。ただ、知らない傷がたくさんついている。穴まであいていた。それらが示す事実がわからないまま、足を通してドアを開ける。ぽたりと、土間に頭から流れ落ちた雫が滲んだ。
 音は立てなかった。子津が追ってくるのが怖かった。ドアノブは見たこともない形で、取っ手の上のつまみを下方向に押しながら外側へ体重をかけなければ、ドアは開かなかった。
 ドアは開きながら強い光を中に採りいれる。夏の光だ。とうとう目にぶつかってきたそれは懐かしいほどに眩しく、目を閉じずにはいられなかった。そして、開けなければよかった。
「……っ」
 堤防を挟んで、海と砂浜と、空が広がっていた。
 恐怖が海が気まぐれに立てる波音と一緒にざわざわと打ち寄せる。怖い話を、聞きたくないのに逃げ出せないときみたいだ。ぞくぞくと心臓を掴まれた。好奇心の中に宝石のように埋め込まれた恐ろしさ。
 引きずられるように歩きだす。すぐ傍に砂浜に降りるための階段があった。生々しく白いコンクリートだ。ほんの5、6段しかないそれを降りると、靴の裏にふかふかと砂があたる。やはりその白も生々しい。見てはいけない部分の人の皮膚の白さのようだ。星の砂が、微生物の死骸だということを思い出した。これらもそうなんだろう。たくさんの死体を踏みしめて歩く。血で汚しながら。もう痛くない。ただ雨のように首筋を伝って流れ落ちる、粘りのある液体が不快だ。赤い血の滲みていく白い砂、白い砂、白い砂。かりかりと、その粒に脳みそをひっかかれた。どうして、オレはここにいるんだ? 1人で?
 1人で、どうしてここに?
 1人なのがおかしい。1人で怯えているのがおかしい。どうして、なんだっけ、何が足りないんだ、おかしいだろう、こんなことは予想していなかった。
(――ね、……ろうよ)
 頭の中に鉤爪のように誰かの声がひっかかる。何かの匂いの中できいた。夢を思い出すように、頭の中の砂の中に溺れそうになりながら足掻く。
(――楽しみだね、砂のお城を作ろうよ)
 兎丸だ。そうだ、隣だ、すぐ傍にいたんだ、どこの隣だ? ああ、車の中。独特の、酔いを誘発しそうなにおい。レンタカーのシートの上。兎丸が隣に座っていた。白い砂の上には、兎丸も一緒にいるはずだった。後ろの席に座っていた犬飼も司馬も、助手席から振り返っていた辰羅川も……運転席に座っていた子津も。
 どうして、ひとりきりで。
「――兎丸、司馬っ! 犬飼……辰羅川……!」
 駆け出す。
「どこにいるんだ、お前ら、返事しろよ、おい……!」
 呼ぶ声が涙に裏返る。
 腕が痛い。駆ける足からサンダルが外れる。じゃりじゃりと、踏み込む度に砂が踵を飲み込む。砂浜の端は見えない。どこまで走っても誰もいない。どこまでも走れる。どこまで走ってもいない。ざらざらと波の音が耳から流れ込んでくる。泣き続けている脳みそを圧迫する。
「どこだ、どこだよ……!」
 やがて力は尽きる。座り込むと頭痛が甘く吐き気と共にこみあげた。赤い砂に埋もれて、波を見ている。