「さあ、な」
 笑う横顔は、どこか薄かった。
 窓ガラスに映っているからだろう。オレからそっぽを向くように、窓の向こうの雨景色を眺める猿野は、似合わない、穏やかな目をしていた。考えていることがわからない。
「雨は」
 少しだけ顔がこちらを向いて、やっと実像の目が見える。窓に映っていたのと変わらず、喜びも悲しみも、憤りもその目は訴えない。こつん、と音を立てて、身近な人間にいない、マメの少ない指が小さなプラスチックの容器を叩いた。
 飴玉が詰め込まれたそれは、ちょっと前にナンパしてきた女が買ってきてくれた、土産か何かだった、ような気がする。猿野はそれをしらない。
「嫌いじゃねえかもしれねえ」
「飴が?」
 くれてやろうか、と思った。
 女が買ってきたもんを、こいつがむしゃむしゃと無造作に咀嚼する様は想像だけでも小気味いい。眉間に皺を寄せて、猿野が笑い声を立てる。
「雨」
 否定の言葉に、バツが悪くなって、話題を逸らすように、
「てっきり、野球できないから嫌い、とか」
「そんなに野球好きに見えんのかよ、オレ」
「見えるわけねえじゃん。屑桐さんの前でふざけたお前の勇姿を、オレは一生忘れねえよ」
「見納めになると思ったってか?」
「ご名答。遺影は録先輩の撮った写メかなあ、とか」
「薄情者」
 くつくつと、いかにも性格の悪そうな笑い声。お互いが自分が優位と確信してる言葉遊び。
 冬の雨の寒々しさと、寒いのも暑いのも嫌いなオレの部屋の温度差に、窓の内側にも雨が降っている。結露は、まるではた迷惑な誰かのように、いくつも道連れを巻き込んでは、サッシに落ちていく。
「なあ、今日、筋トレとかはあんじゃねーの?」
 よいしょ、と体を伸ばして、柔らかな右手を両手で掴む。まったくの素人から比べちゃ硬い方なんだろうけど、選抜といえども高校野球の全国大会で勝ち抜いてきた手とは思えない。
 人間の小指がどこまで反るか、知的好奇心により実験するオレを、咎めもせずに猿野は見ている。
「さ、あな」
 返答は、だいぶの間を挟んで訪れた。
「いいのかよ」
「イーんだよ」
「サボリ魔」
 もてあまして手を離すと、つい、と指先は宙に弧を描いて主のもとへと戻った。パキパキと音を鳴らして、指を折り曲げる猿野がオレの手を見る。
 にやり、そんな音がしそうだ。
「何笑ってんだよ。気色悪ぃ」
「思い出し笑い」
「あ、スケベ?」
「言ってろ、バカ」
「バカじゃねえよ、芭唐」
「馬鹿で十分だ。お前なんか」
「バカはお前だ、マジ死ね」
「馬鹿は死ねーぇ?」
 先ほどまでの静けさが、まるで仮面でもつけていた嘘なのだと誰かに言いふらすように、猿野がケタケタと笑い声を立てる。
 音の残滓は、雨に打たれて部屋の中へ跳ね返った。金盥を打つようなそれは、耳障りにも程がある。
 伸ばした人差し指で、顎に触れる。剃り残したのか、ざらり、とした感覚が一瞬。意味を含んでゆるやかに動く指を無視して、茶色の瞳はオレを見返している。
「猿野くん」
「キモい」
「ヤろーぜ?」
「御柳くん、発情期?」
 キモいと言ったオレの口調をそのまま返した猿野の唇に食いつく。舌はあっさりと侵入可能で、撫でた歯茎はぬるりとしていた。かすかに、鉄の味がする。
 大人しくされるがままになっていてくれた相手の舌はやがて動き出し、すれ違うようにこちらに入り込んだ。上顎を舐められると、ぞくりとする。
 ああ、また。
「……満足?」
 オレの負け?
 ゆっくりと力を抜いたオレの舌を離して、唇も離して、猿野が口角を吊り上げる。その様は余裕に満ちていて道を歩けば実感する身長差も、騒ぎまわる子供っぽさも形を潜めて力ではない何かに捻じ伏せられる。
 何が違うのか、と問われて、答えられない何か。
「……シよ、つったじゃんか。こんなんで満足するかよ」
 負けるのは悔しい。したり顔を、壊してやりたい。何よりも、さっきの笑い声が、頭の中に反響して意識を削る。いつもみたいにバカ笑いすりゃあいい。中途半端なトーンの高さが、不快を膨張する。黙れ黙れ黙れ。

 飴の入った器が倒れて、音を零した。また明日には聞くことになるのかもしれない笑い声を塞ぐために、繋いだ唇からは憂鬱や悲しみでなく暖かさだけが伝わってくる。