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冷蔵庫には何も残ってねえと思ってたのに、トマトが入っていた。
しかもプチじゃなくでかい。
家で飯なんか食わねえって知ってんのに、間違いなく嫌がらせだ。冷蔵庫の中とはいえ、この季節黴でも生えたらどうしてくれんだ。……まあ、あいつが捨てるだろうな、まず間違いねえ。
ほっといてもオレには害がないという結論が出たので、黄ばんだような白さをした冷蔵庫の棚に掴んだトマトを戻した。
それにしてもたった一つばっかり。マジでどういうつもりなんだあのバカ。
ミネラルウォーターだけ取り出して音を立てて扉を閉め、シンクに出しっぱなしだったコップに注ぎ込む。
寝起きの舌に、不味さが絡みついた。浄水器、買やいいんかな。めんどくせえ。
またシンクに戻してペットボトルは出しっぱなしで、ベッドに倒れこむ。
これも黴くせえ。干さねえのが悪いんかな。つうかあいつが来ないのが悪い。あのトマトも、張りがなかった。最後に来たのは、ずいぶん前だった。
十二支とウチの期末がちょうど一週間ずつずれて、終わったと思ったら向こうが始まった。
それだけのことだったけど、練習に明け暮れる以外をあんま許されてねえ高校球児には結構な打撃だ。とくに今は夏に向けて、ほとんど息のつく暇もない。
この前は学校帰りにどろどろで来たと思ったら、さっさとシャワーを浴びて崩れ落ちるように寝てやがった。オレはそれに気付かず、朝まで寝てた。
トマトは、うちになんにもねえの知ってるおふくろさんに持たせられるか何かしたんだろう。
食いきるか持って帰るかしろっつの。ぼんやりとした赤い輪郭が、布団に眼を押し付けた暗闇に浮かんだ。気になってしょうがねえ。
マジ腐ったらどうしよう。だめだ、やっぱ今あのバカにやらせるしかねえ。あートマトトマトマト。
もうちょい早く気付いたら、食ったかもしんねえけど、あの、ババアみたいな皮に触ったら、もう冷蔵庫開けるのも嫌だ。
つうか、いますぐ玄関が開きゃいいんだよ、なんで来ねえんだよ、ウチで勉強すりゃいいじゃんかよ、何がソバカスに勉強教えてもらうだ、ちょっとツルみすぎじゃねえの?
試合中も顔近えんだよ。何わざわざベンチで耳に口つけて話してんだよ、おかしいだろ、作戦なら仲間全員とで話し合えっつの。
拳で布団を叩くと、埃のたつ音がした。トマトおいてくんじゃねえよ、バカ。冷蔵庫の中で腐ったら、マジ殺す。
つうか新しい冷蔵庫買わせてやる。嫌なら、早く来りゃいいんだよ。あんなしなびたトマト、置きっぱで。
起き上がる。窓の向こうは、朝から降り続ける雨が、まだまとわりついていた。
ダメだ、あのトマトだ。あれがある限り、オレに平穏は訪れない。寝るしかねえのに、寝れないってなんの冗談だよ。
携帯の、短縮番号4(1辰2犬3カントク0欠番)。出ねえし。マジ死ね。つか殺す。トマトに頭ぶつけて死ね!
そう、トマト。問題はトマトだ。
クソッ、完璧に目が覚めちまった。
大体、オレはトマト好きじゃねえんだよ。気付け、覚えてろそんくらい。
何がムカつくって、あの色だよ(ちににてる)。
あー決めた! 決めたはい決めました、あのバカ待つまでもねえ、このオレさまが引導渡してやんよ。なんてことねえ、ゴミ箱に叩き込っんでやる。華武四番バッターの力なめてんじゃねえぞこら。
ぐちゃぐちゃにしてやらあ! 部室のドアだったら蝶番が外れる勢いで冷蔵庫を開けると、閉めたときのまま、トマトはふんぞり返っていた。
良い度胸じゃねえか。
口端を上げて、右手を伸ばす。気持ちの悪ぃ、ふにゃりとした感覚。我慢の限界が来たのが、取り出してからだったのが悪かった。
べちゃり。
とぶように、それはおちた。
煮詰められた脳ミソみてえな塊を真ん中に残して、赤は飛び散る。足の上に落ちたもんだから、ぬめった感触が指の間にまではいりこむ。五枚の爪を染め上げ、甲を塗りつぶし、足首にまで真っ赤に咲いた。じわじわと、落ちてなおどこまでも広がっていくように見えるのは錯覚か? 薄きみどり色をしたヘタが、果肉に沈み込んでいく。ざらついて尖った葉が、赤の中に消える。ゆっくりと、沼は広がっていく。フローリングがどろりとした血の向こうにくもって見えない。わからない。
この下は見慣れた白木か? 針のむしろ? 油鍋? それとも、オレは既に、血の池地獄に足を突っ込んでんだろうか。
閉じることを忘れた目に映っていた、赤の中に、足が埋もれていく。いつか、もう片足が、腰が、胸が、頭まで?
ちに肺までみたされて? どうして、こんなことに。
身じろぐ。
ずるり、と、踵が、体から遠のく。ゆらぐ。
(――落ちる!)
ガツンッ…と、重い音がした。目を瞑る。
覚悟していた浮遊感は訪れない。当たり前だ。
たかがマンションの一室だ。足が滑っただけだ。トマト一つ落ちたぐらいで、穴の開くはずがない。ましてや、地獄へだなんて。
アホらし。強かに打った頭を、抑えながら身を起す。
いまやトマトは、しなびた体にはちきれさせた果汁を、寝巻き代わりにしていたジャージの裾まで侵食させていた。
「……」
無残に潰れているのに、それは赤いままだ。どんなに、踏み荒らそうと、その鮮やかさは失われない。
鮮やかな、あの銀を染めていた、うつくしい色をしている。
どんなにオレが暴れようと、喚こうと、赤い。
それはきっと、オレが今泣きそうなほど、あいつを求めているのに玄関が開かないのと同じ理屈なんだ。
同じものに二度叩きのめされて、オレはぼんやりと、みじめな姿を曝し続けるしかなかった。
とおくで携帯電話が鳴っている。
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