HRも終わった教室棟は人の影もまばらで、日常と違う冷たさがあった。
教室に置き忘れていたメニュー表を探してB組を通りがかると、人影がある。もの珍しさに覗き込むと、思わずため息が漏れた。どういうことなんだか。
「いないと思ったら……」
こんなところで寝こけていたんですか、とは呆れて言葉にもならない。机にうつぶせて、幸せそうに猿野くんは寝息を立てている。まさかとは思うが、HRからこのままだったのだろうか。まったく不真面目にもほどがある。
「猿野くん、おきてください。部活の時間ですよ」
肩に手をかけて、揺さぶった。
起きない。こんな控えめなことじゃ、ダメなのだろうか。まったく手間のかかる。こちらだって暇じゃないのに。
だんだんに揺さぶりを大きくしてやるのも優しすぎて腹が立つような気がした。前のめりになりすぎているせいで尻の端しかかかっていない椅子を、思い切り後ろへ抜いてやる。ぎゅへっとうめき声を上げて猿野くんは床へ落ちた。音から察するに、ずり落ちる際に机の天板に顎もぶつけたらしい。すこしやりすぎたかもしれない。
「敵襲かーっ?! 武器を持て孔明!」
寝ぼけた猿野くんが立ちあがる。「部活の時間ですよ」と言ってやると「あれ、たっつん?」と瞠った目が向けられる。
「まったく、いつから寝ていたんですか?」
「軽く昨日の朝から記憶がねえな」
「よほど都合のいい寝相をお持ちですね?!」
「いやいやそんなに褒めんな」
猿野くんがにやける。「バカですか」と切り捨てると、酷え! などと喚かれた。
「もー、マジたっつんオレに対して愛情が足んねえよへびっちになっちまう」
机の中のものを鞄に無造作に詰め込みながら、そんな風に愚痴ってくる。何がへびっちですかとバカらしくなって
「へびっちだろうがとりっちだろうがおやじっちだろうが勝手におなりなさい。野球さえしていただければ結構です」
踵を返してそうあしらった。詰め終わった鞄を、担ぐらしい気配がする。すぐ後ろから、声。
「たっつんたらオレの有り余る溢れんばかりのむしろ溢れてドブ川に流れ込む才能に惚れ込んでんだから!」
肩から首に、学生服の腕が巻きついてくる。
「こ、こら! 離れなさい!」
ぐんと体重をかけられて、慌てて振り払うべく肩をゆする。さすがはホームランメーカーの腕力だ。そんなことで離れてはくれなかった。
「このままグラウンド連れてってくれよ、天国疲れて動けない〜」
「170cm強の男が可愛い子ぶっても気色悪いだけです。とっととお離れなさい。でないとわたしのモミアゲが火を吹きますよ」
「吹くの?!」
「出来るキャッチャーたるもの、備えはかかせません」
「はははは、はい……すみませんでした……」
ようやっと、背中が軽くなる。まるで子泣きじじいにでも襲われた気分だ。
廊下に出て、グラウンドとは逆方向に足を踏み出すわたしを猿野くんが振り返る。
「あれ、サボり?」
「バカ仰い、君じゃあるまいし。忘れ物を取りにきただけですよ」
「なーるほどね」
じゃ、またあとでなー、と猿野くんの遠ざかっていく足音を背中で聞く。A組はすぐ隣だ。入って、足を止めてしまった。
顔が、熱い。
あの人が見ているところでなくて良かった。どんなに調子に乗られてしまうかわからない。いや、調子に乗られたほうがどんなにましか。本当に驚かれてしまったらもう消えてしまいたくなる。
熱を吐き出すように、あつい息で言葉を作る。
「何が惚れ込んでる、ですか、バカじゃないですかあの人は……」
耳まで赤くなっているかもしれない。
あんな一言だ、冗談だろう、そうわかっている、のに。
『たっつんたらオレの有り余る溢れんばかりのむしろ溢れてドブ川に流れ込む才能に惚れ込んでんだから!』
まきついてきた腕の体温が、続けて思い出される。
彼自慢の冗談だ、推測も憶測もそこにはおそらく1%も含まれていまい。そう、わかっている。
興奮を冷やすために、わたしは1人言葉を続けた。
「大体、そう、野球の才能ですよ。ほれ込んでるなんて、そこまでは言いませんがたしかに彼は十二支の長打砲で……」
そこまで、言って、はたと気付いた。そうだ、野球の才能に、惚れ込んでいると誤解されているなら、ここまでうろたえることもない。彼が十二支に必要な人物であることは事実だ。隠すまでも無い。
じゃあ、わたしはなんで、こんなに顔が赤くなって?
「バカ、じゃないですか、ほんとに……」
惚れ込んでいるの一言に、自分が連想したのはなんだったのか。考えたくない。
どんなに独り言を紡いでも思い通りにならない頬を冷やすために開けた窓から、グラウンドに飛び出していく猿野くんの笑い声が聞こえてくる。
ああ、
「なんて愛しい」
……何かの間違いに決まってる、こんな気持ち。