には砂煙が舞い上がっている。大阪予選準決勝を狙ったように、風が強くなっていた。

 自軍ピッチャー、鶯谷の背中を見ながら、鴨神は予報との風圧のずれにスケジュールの遅れを気にする。しかし、どんなに遅れようと結果は変わらないことはわかりきっている
 ワンアウトランナーなし9回裏。相手の攻撃。1−0で自校がリードしている。
 1−0でくだす、美しくシンプルな試合を全てにおいてするべきだと、今季鴨神は考えていた。なまじの相手ばかりであれば、ひとつひとつに全力で向かっていくのもいいかもしれない。その充実感は何物にも変えられないだろう。しかし、この先の決勝には間違いなく、半端ではない化け物が相手なのだ。
 どんな城より堅い守備を武器に決勝戦まで上り詰めながら、当時2年生であった鵙来にあっという間に下された屈辱を、鴨神、蓮角を初めあの戦いに身を投じていた2年3年は忘れはしない。
 それでなくとも、今年は雉子村黄泉が加わっている。
 奴らを下すには、途中の雑魚に無駄に消耗する手はない。
 あのとき噛み締めた敗北の味を思い出すたびに、鴨神は歯軋りを堪えきれない。だからこその今季のこの方針だった。決勝までの全大会は1−0で下す。1点取れれば、豊臣に情報を漏らさないために、あとの打席は流してもいい。
 取られなければ、負けることはない。全ては決勝のために温存するのだ。
 ゲームコンダクターの名は伊達では取れない。だからこそその呼び名にかけて、いつよりも優雅に最小に、準決勝までこの指揮棒を振ってやろう。
 豊臣を下すためのプロローグを。
 それがこの夏に対する、鴨神の決意だった。
 そしてそれは八割がた、今成ろうとしている。
 ここまでは全て計算どおりだ。球数が制限されている、本来ならば2軍であるピッチャーの鶯谷の決め球はとっくに使用禁止の数を超えていたが、予測済みだ。エースを出すまでもない。ここから先は小手先で逃げ切る。5番さえ乗り切ってしまえば、この試合、無様に振りかぶってばかりの6番は物の数ではない。
 鴨神の心境を知ってか知らずか、打席に向かって歩き始めた5番はぐるぐると肩を回し、絶望も憔悴も見せずにバッターボックスに立った。
『5番 サード 鷹羽くん』
 アナウンスが響く。負けを認められない観客席から歓声が飛ぶ。まだ諦めきれないのか、これは、ただの1点差ではないというのに。鴨神は哀れみを持って彼らを眺めた。
 鷹羽は観客たちの声援に笑みも見せず、ピッチャーの鶯谷を睨みつけてる。
 動揺を見せないように緊張しているだけで、絶望していないわけではないだろう。
 様子からそう見て取って、鴨神はタイムスケジュールの修正をやめた。試合開始から1時間24分、この試合は1−0で鴨神たちの勝利となる。
 気にかかることはないでもなかったが、もう試合としてはギリギリもギリギリだ。ここに来ては何も出来はしない。
 ただ、5番という数字が、やけに引っかかっていた。
 鷹羽は常に府下ベスト4入りを果たす近松高校で、3年間4番を張ってきたスラッガーだった。おそらく、鵙来がいなければ大阪1の大砲の名をほしいままにしてきただろう。それが今日になっていきなり5番の下に刻まれた名前。何かの作戦かとずっと警戒していたのだが、結局何もないままここまできてしまった。
 2年生が4番に抜擢されているので、おそらく彼に場数を踏ませるためなのだろう。来年に賭けている。
 敵は戦う前から、この試合を投げていたということだ。
 こちらとしても無駄な労力がかからずに済むならそれに越したことはない。無事、鶯谷の秘球は全て衆人の目に晒すことなくこの場を迎えられている。
 良い判断をしましたね。相手の監督をそんな風に、褒め称えたいほどだ。悪あがきでもされたら迷惑極まりない。あくまで、自分たちの目標は豊臣にある。
 決め球がなくとも、鷹羽を一塁に留めることぐらいは出来る。そのためのデータだ。6番のキャッチャーは力はあるが、いかんせん打率が低い。今日も、大した球を放ったわけでもないのに全て三振した。そんな打者にバントすらさせるつもりはない。
 鷹羽のホームランさえ抑えてしまえば、塁に出られたとしてもこちらの勝ち以外に結果はない。
『鷹羽くん打ったーッ! 内野を抜けます!』
 内角に抉るカーブを掬った球は外野まで届き、赤のユニフォームが2塁に立つこととなった。鷹羽はホームに届かなかった。
 勝った。
 鴨神の顔が喜色に染まった。
 あとは豊臣だ。
(去年のツケは、数倍にして返してさしあげます)
 それを考えるだけで、笑いが胸から込み上げる。負けるものか、才能を越える頭脳を見せてやる。
 あとはおまけでしかなかった。
 3塁側の観客席も、相手のベンチも消沈し、音は無い。一周遅れでゴールする、リレーのアンカーのようなものだ。
 だるそうに、6番はバッターボックスで素振っている。誰もが力を抜いていた。
 鶯谷が振りかぶる。6番が構える。
 これで終わりだ。鴨神は、ほくそえんだ。
 けれど。
「鷺ィッ! 今や!」
 突如、二塁から声が響いた。そして走り出す。それに応えて、バッターの体が歪む。
(盗塁?! いや……バッターの構えが変わった?!)
 驚愕に目を見開き、鴨神は呻いた。
「鶯谷! あかん!」
 蓮角が叫ぶ。間に合わない。
 白い球は放たれる。6番の構えは低い。いままでの大上段のような構えとは違う。
(あれは……中学のときの鷹羽の……!)
 大した収穫は無いだろうと思いつつ一応眺めておいた、中学時代の鷹羽の打席を思い出した。
 中学時代の鷹羽のデータは少ない。公式戦先発メンバー入りが3年の夏大会、準決勝しかないからだ。あとはほとんど、勝負に関係ないところにお情けのような形で出ていることになる。
 打てば間違いなく飛ぶ。けれど打率の低さがネックだった。その夏大会までは。
 ――いままさに振り下ろされようとしている、あのフォームが現われるまでは。
「外野下がってください! はやく!」
 焦って飛ばす指示は間に合わない。間に合ったとしてもどうにもならなかった。
 バットに勢いよく、真芯で殴りつけられた球は、まっすぐ高く飛んで、外野を越え、
 観客席に落ちた。

 まさか。

 信じられない。ありえることではなかった。
 ゲームコンダクターの指揮棒は、あっけなく爽快な音と共にバットに叩き折られた。
 チームメイトはみな呆然とボールが飛び込んだ先を眺めている。落ちてきた爆弾に住んでいる街も何も壊されたことをすぐには信じきれないように、いま負けたこともとうてい信じられそうになかった。何かを、自分たちは勘違いしているのだろう。
 けれど誰もその間違いを正せないまま、審判の声が球場に響く。
「ゲームセット! 2−1、近松高校!」
 まだ醒めないのか、この悪夢は?
 鴨神は一心にホームを見つめていた。鷹羽が飛び込んでくるのに、鴨神のチームのキャッチャーがよろける。そして続く6番。集まるナインたちは誰もが喜色を満面に湛えている。
 その真ん中から、鷹羽が、鴨神を、見た。
 ただでさえ良くない目つきがにやりと歪められる。まっすぐそれは、鴨神にぶつけられている。
 その目が、全てを語っていた。
 ――やられた。
 悟った。ぐう、と喉の奥が鳴った。
 鴨神の指揮棒を折ったのは6番ではない。他の誰でもない、鷹羽だったのだ。
 フォローはしていたが、鴨神の試合予定が全て1−0を目指していたのは、ここまで来れば知れていただろう。その最小限の点差を予測しているならば、最後の回で逆転を狙われることも予想がついていた。だから、8回に1〜4番まで危うい満塁策を取っても打順を回した。
 そして鷹羽さえ、押さえれば、あとは、と。
 思わず生じた油断に付け込まれた。
 鷹羽が5番に回っていたのは、後輩の育成のためだけではない。下位打線の6番を警戒させないように、その直前で自分たちの意識を集めることが役目だったのだ。そして、駄目押しに6番にここまでの打席全て空振らせている。今までの試合データから見ても、あの瞬間まで自分たちが6番を警戒する要素は皆無だった。
 そこを、まんまと出し抜かれたのだ。
 鴨神が憎む、鵙来や雉子村を甲子園に押し上げる、才能でもなんでもない。己のフィールドとするはずの読み合いで。
 一瞬だけこちらを見た鷹羽は、あっという間に気のいいキャプテンの顔に戻ってチームメイトに囲まれている。感極まって涙を流している6番にプロレス技をかけて紛らわせ、最後には皆で声を上げて笑った。鴨神に見せた凶悪さは、影を潜めていた。
(許さない)
 悔しさは、去年の豊臣相手のものとは比較にならなかった。
(この屈辱、必ず返してやる)
 睨む視線を鷹羽は見返さない。仲間の真ん中で楽しそうに笑っている。鴨神の良く知る、何も考えていない笑顔で。けれどそうではないのだ。知ってしまった。
 この後、総力戦で彼とチームメイトになることを、それはあれほどまでに追いかけた鵙来や雉子村ともチームを同じくすることを鴨神は知らない。ただただ、もう自分と相見えることもなく引退するはずの鷹羽に向かって、昏い憎悪を向けている。
 勝利の一瞬に自分へ向けた、一癖強く滲み出る笑みと、いま部員に向けるほがらかな笑みを、繰り返し脳裏に点滅させながら。しずかに、執着を募らせている。