旅館の丈の低いテーブルの上に上半身を寝かせて、足は正座の形に折りたたんだまま、白い(厳密に言えば、真っ白ではなく、全体的に茶色がかっている)原稿用紙に鵜相は唸り続けていた。かりかりと周りは着実に升目を埋めている。
 テーマは『自分の短所・長所。また短所の改善方法、長所の伸ばし方』だった。ありふれたお題ではあるが大阪選抜に選ばれた中の総力戦でのレギュラー決めを前にしていると、適当なことを書くことは出来ない。
 鵜相の弱点は打撃だ。決して弱いということではないが、やはりこの中に入ると劣る。レフトとしての実力が他の候補に引け目を取るとは思えないが、レギュラー落ちするとなれば打率の低さがネックであることは間違いが無かった。
 かといって、おいそれとその解決方法が見つかるわけでもない。
 伊達に激戦区と言われる府下予選を準決勝まで勝ち抜いたわけではない。その準決勝自体はいっそ潔いまでの負けっぷりを披露してしまったが、それにしても雉子村黄泉・鵙来九朗双方ともに引っ張り出したのだから健闘と言っていいだろう。なにしろ彼らは、いま現在大差で他県の代表校たちを叩き落し続けている。
 彼ら相手に、主力ではなかったが鵜相は1年の身で大いに戦った。そして今府選抜にも選ばれている。
 ここまで来るのに生半可な努力はしていない。出来ることはやっている。いまさら自分の弱さが打撃だと認識しなおしても、これ以上の改善の方法が見当たらなかった。
 手持ち無沙汰に、膝を畳に擦らせて、30cmほどの隙間を挟んだ隣の長机でペンを走らせる鴨神の手元を覗き込んだ。
「……なんです」
 無愛想に鴨神が尋ねる。一緒に選抜された鵜相と同じ高校の人間は「とっつきにくい」と憎まれ口を叩くが、鵜相自身は鴨神がそう嫌いではなかった。自分たちとかけ離れすぎているだけで、彼は彼の考えによって理性的に行動している。その理路整然とした考え方が、鵜相は結構好きだ。
「鴨神さんは、どないに書いてます?」
「鵜相くん。これは試験の一環ですよ、カンニングでもするつもりですか?」
「さ、参考にさせてもらおと思うただけです。そないな怖いこと言わんといてください」
「それを人はカンニングと言うんですよ」
 そうは言うが、にっと笑ってみせると、応じてくれる。優しいところがあるのだ。ただ単に、鵜相を侮ってかもしれないが。
「大したことは書いていませんよ」
 そう、原稿用紙を見せるように、体を起こしてくれた。
 シャーペンはその手に握ったまま、消しゴムは、左隅に転がっている。ふ、と升目を几帳面に埋める文字よりはやく、消しゴムに目が止まった。
「何が書いてはるんですか?」
 几帳面に、消しゴムが縮まった分だけ切り縮められているケースからはみ出している部分の消しゴムの腹に、油性ペンで何かが書かれているのがわかった。手にとって、ケースから出す。半分消えていたが、たぶん、女の子の名前だった。
「えー、うわ、これ、カノジョさんの名前ですか? 消しゴム交換なんて、なんや先輩かわいら」
 し、まで言わせてもらえなかった。いつのまにか、手のひらにのせてまじまじと見ていたはずのそれは、鴨神の手に戻っている。
 鵜相の目からそれを隠すように、握り締める拳は堅い。
「鵜相くん、残り時間が少ないようですよ」
 表情は変わらないが、焦っているのは見て取れる。
(珍し)
 怒ることはやぶさかではないが、こうして焦り、それを必死で隠そうとしている鴨神なぞ見たことがない。よほど大事な彼女なのだろう。女の話題で盛り上がろうとしていた目論見を外して、「そうですね」と返し、鵜相は自分の原稿用紙の前に戻った。
 外した。鴨神に女の話題は、しばらく触れないほうがいいと学習して、ふと顔を上げると斜め向かいの鷹羽がこちらを見ている。
 鵜相は首を傾げる。
「なんです?」
 や、と鷹羽がどもる。また珍しいものを見た。躊躇するより何より、体が動く人だというのに。
 そういえばこの人は、シニアが一緒だったとかで鴨神と面識があったはずだと思い出した。もしかしたら、仲が良いのかもしれない。
 原稿用紙の端に、書き付けた。
(鴨さんのカノジョ、知ってます?)
 一瞬鷹羽が惑うように視線をゆらがせ
(知らへんな)
 嘘だ、とわかったが、ツッコミはしない。
(消しゴムに、女の子の名前書いてはったんです。カノジョやないんでしょうか?)
(さあな)
 少しの考えの後に、書き足された。
(なんちゅう名前の女や)
(半分は削れてて、よう読めなかったんですけど)
 右に、少し大きめに。
(姫)
 左端に付け足した。
(て、書いてはりました)
 その瞬間の鷹羽は見ものだった。ぴん、と、美術の時間に書き写させられた銅像のような顔で固まった。触っても、その頬はちっとも柔らかくないかもしれない。そう想像させるような固まり方だった。
 そしておもむろに立ち上がる。鴨神の後ろを通って部屋を出るのかと思えば、原稿用紙の見直しに前を見ていたその襟首を掴んで立ち上がらせた。鴨神が異常に軽いのではなく、鷹羽に力があるのだろう。そしてずるずると引きずって、今度こそ部屋を出て行ってしまった。
(なんやまずいこと言ったんやろか)
 ゴンッと、あからさまに人が殴られる音に、鵜相は思わず目を瞑った。
「何恥ずかしいことしとんねん!」
「消しゴムにぐらい書いたっていいでしょう、どうせ付き合ってますって誰に言わせてくれるわけでもないんですから!」
 と言い争う声が、部屋には届かないほどの声でやりとりされていることを知らずに。

 鵜相の横に置き去りにされた原稿用紙のタイトルの下には「鷹羽カズキ」と乱暴な字で記されている。