かわいそうだ、と猿野は思った。それはひどくそぐわない、失礼なような感じが自分でさえした。
 でも、かわいそうだ、と唇で呟いた。視線の先では、辰羅川が困っている。犬飼はそ知らぬ顔で球を投げ続けていた。あんなに辰羅川が困っているのに。
 あいつらの関係は対等でない、と猿野は思った。ずっと知っていたけれど、言葉にできなかった。

 だいぶ上手くはなってきたけれど、比べ物にならないほどの時間を野球に費やしてきた部員たちと、野球に対しての距離があるのはわかっていた。彼らの世界の中心はいつだって野球におかれているのだ。それを奪われれば、まるで自分ごと空へ舞い上げられて風に嬲られるような、そんな雰囲気を持っている。
 猿野にはそれがよくわからず、差を感じる出来事にであうたびに、子津の笑いがいつもと違うのが嫌だった。聞き分けのない子供を諭すような笑み。
 けれど、野球が自分の中心にくるのもなんだか嫌だと思う。その分、何かが見えなくなるのだろう。今の猿野の気持ちを、彼らがわからないのと同じように。
 いつか、あんまりにも犬飼の態度を見かねたことがあった。その場でも怒鳴ったけれど、のちに兎丸たちに同意を求めたことがあった。兎丸は、困ったように笑った。まるで子津のようだった。
「犬飼くんは、野球、上手だから」
 そのときはよく、言っている意味がわからなかった。
 しばらく考えて、あまりのことに愕然とした。同時に、それを言ったのが兎丸だということにまた衝撃を受けた。へらへらと笑い、部活中でもゲームに手を伸ばす兎丸は他の人間よりよりは自分より(つまり野球が中心でない)であると思っていたのだ。
 そんな兎丸ですら、そうなのだ。
 明確には口に出さない。意識しない。
 けれど彼らの全ての根底に野球があるのだ。野球が上手ければ、なんでも許されるのだと、理屈では違うとしっていても、信じてしまっている。理屈じゃないから、違うといっても仕方がない。困ったように笑われるだけだ。何もしらない子供は仕方ないねと、そんな目線で。
 決して野球が嫌いなわけではなかった。部員が嫌いなわけでもなかった。
 けれど、ふとしたときのそういう動きに、どうしてもぞっとする。たかだか球を打って捕って投げるだけにどれほどの価値が見出されているのかと思うと目を瞑って耳を塞ぎたくなる。
 何も考えないで、上手いとか下手とかなくて、野球だけがしたいと思う。
 誰かに、そういいたかった。
 けれど渦中の人間にはそんなことは言えないし、沢松にも上手く説明できる自信がなかった。誰かに叫びたいのに、まるで童話の散髪屋のように、腹に抱えているしかなかった。普段は忘れていられるのに、ふとしたときに憂鬱になった。
 いっそやめてしまいたいと思ってみても、女神の笑顔がある限り、大事になってしまった部員がいる限り、自分にそんなことができるはずがない。

 だから、辰羅川と二人になってふと、それを零してしまったのは偶然だった。と思いたい。そんなに自分が卑怯だと、認めたくない。
 喋ってる途中から、あ、やべえとは思っていた。これはよくない傾向だ、喋るつもりもないことも喋りかねない、と。悪い予感はえてして当たるもので、気付けばべらべらと猿野は喋っていた。さすがに、犬飼と辰羅川の関係については喉の奥に閉じ込めたけれど。
 辰羅川は驚いたように少しだけ目を瞠らせて、話を聞いてくれた。
「そうですね」
 と辰羅川が微笑む。それは困ったような笑みではあったのだけれど、兎丸や子津が浮かべたそれよりだんぜんマシだと思った。罪悪感がそう思わせただけかもしれない。
「そういうこともありますね、何せ、野球だけで過ごしてきた人が大半ですから。君がこういう中で、その考えをもてることはとてもいいことだと思いますよ。一点に集中しすぎてしまえば、集団というのは転ぶものですから。どうか、君がその加速を緩めてあげてください」
 変な違和感があった。それに気づいたようで、辰羅川が目を細めた。
「実は、そう指摘されても、もうわたしたちにはわからないのですよ。いいえ、猿野くんの言ったように理屈ではわかっているのです。野球で世界の全てが決すると信じていることは間違っていると。けれども、」
 丁寧に、学ランのボタンを閉めながら辰羅川が言う。犬飼はとっくに帰途につき、部室には2人だけしかいない。
「どうしても、思ってしまうのですよ。なぜ駄目なのだ、と。狭い世界の何が悪い、と。これで生きてきたのだから、どうしてこの先野球以外で何かを決められる謂れがあろう、と」
 猿野が息をのんで、辰羅川が微笑んだまま謝った。何かが間違っていることはわかっているのに、言葉に出来ずただ猿野は辰羅川を見た。
「昔ね、犬飼くんも、同じことを仰っていましたよ」
 もういちど、猿野はいきを飲んだ。
「けれど、幼いわたしにはそれがわからなくて、一緒にいた友達もわからなくて、ひっしに、犬飼くんにそれは違うと言い聞かせたんです。いま思えば、自分のせまい世界が壊れやすいものだとわかって、怖かったんでしょうね。やさしく諭すように、彼の健全な世界をこうげきしたんです。その罪償いといえば言い訳になりますけれど」
 犬飼くんの、狭い世界を守ることは、わたしの義務なのです。
 鞄を抱えた辰羅川が、会釈して部室のドアを出て行ってから五秒経ってやっと、猿野はずいぶん前の兎丸との会話は盗み聞きされていたのだと気付いた。