「大神さん!」
 走りながら、大きく手を振る。赤い帽子の鍔が背中に俯いていた。そこから零れる金の髪。
 大分遠いのに、芭唐は走る足を緩めはしなかった。冥も信二もいないから、今日は大神さんを独り占めで野球をしよう。夏の川原は他より涼しく、流れる水の音がやわらかく鼓膜に張り付いてくる。
 背中はだんだん、近づいてくる。ふと、嫌な予感がした。このままでは、何か嫌なことがある。
 けれど根拠のない不安は大神と会える楽しみに勝てはしない、芭唐は嫌な予感を抱えたまま、気付かない大神の手をとった。
 (冥と信二がいないからラッキーだなんて、考えちゃ駄目じゃん)
 軽口でいくらでもそういうことを言うのに、なぜかその後悔が浮かんできた。恐怖が胸を竦める。悪い子には……
『御柳……』
 悪いことが、起こるのだ。
 振り返る大神の顔は真っ黒だった。そうだ、大神さんの顔はあの事故で潰されてしまったんだ!
 怯えた芭唐は捕まえようと伸びてくる腕を振り払い、一目散に後ろへ駆け出した。大神の声はすぐ背中についてくる。嫌だ、嫌だごめんなさいごめんなさい! ああ、骨の露出した手が今にも!


「ごめんなさい……っ」
 黒い顔が大きく広がり、世界を塗りつぶした。
 起き上がる背中に冷たい汗でシャツがぴたりと貼り付く。拭う腕に額が冷えてべたついていた。
 部屋の中は暗く、クローゼットもコンポも全て闇に沈んでいる。まっくらだ、けれどあの黒とは違う。部屋の中はかろうじて見通せる。あれは夢だ、これは夢じゃない。気付いても胸の動悸が収まらない。
 頭が痛い、泣きそうな気分で芭唐は両耳を抑えた。酷い耳鳴りがする。頭が痛い、痛い、痛い、大神さん助けて助けてくれるわけなんかないオレが殺したんだ!
「いっ……つ……」
 悪夢に抉じ開けられた傷に呻いた声に、ベッドの隣の床に敷いた布団にもぐりこんでいた誰かが身体を起こして芭唐を見た。真っ暗な顔。恐怖に、芭唐は息を飲む。その手が、ゆっくりと伸ばされて
「――っ」
 自衛のために竦める肩をやさしく抱きしめた。
「御柳くん……?」
 問いかける声に耳を抑えたまま、涙目を芭唐が瞠る。信二の肩越しに、冥が目を擦りながら起き上がる。何度も何度も、芭唐は目を瞬く。
「大丈夫、大丈夫ですよ、それは夢ですから」
 信二の声が耳から流れ込み、怯えるどこかを宥めていく。
「怖いことはないですから、どうか落ち着いてください」
「あ……」
 ぐちゃぐちゃにかき回されていた心がようやく秩序を取り戻し始める。真っ黒な顔が追いかけてくることなんてない、死んだ人間は……もう動かない。
 冥に比べれば半回りほど小さな信二の手が、ゆっくりと芭唐の背を叩く。
「わたしも、犬飼くんもここにいますよ」
「夢……オレ、夢見てて」
「ええ、わかっております」
「とりあえず、ただの夢だ、それは」
 立ち上がった冥が、ぐしゃぐしゃと芭唐の髪を掻き混ぜる。寝癖にしても酷い髪型になった芭唐を見て、両手は背に回したまま身体を離した信二がちいさく笑った。
 つられて、芭唐も笑う。照れくさくてへへと、まだ恐怖の余韻は消え去らないけれど、笑った。
「水、取ってくる。飲むだろ」
 ぶっきらぼうに冥が立ち上がる。芭唐は咄嗟に言葉を返せず、信二が「どうせならミルクを温めてきてください」と扉を閉める背に投げた。ぼうっとそれを見送ってしまった芭唐に向けて、微笑む。
「怖いことなんて、ありませんよ」
「……悪ぃ、メーワクかけた」
「おやおや、あなたらしくない。そう仰るなら……そうですねえ、明日の朝食はお任せしましょうか」
「でえっ、オレ1人?」
「とうぜん」
 信二の腕の長さ分だけ離れた顔で笑いあう。真っ暗な部屋は寝るのに適した明るさへと評価を変えた。お互いの表情が手に取るようにわかる。
「わたしたちも階下に降りましょうか……何やらおかしな時間に起きて、小腹が減りましたね」
 するりと、信二の手が離れた。立ち上がる動きに合わせて、芭唐もベッドを降りる。
「もー、これが朝飯でいいんじゃねえの」
「バカ仰い、夜食をとろうとも朝食をとらなければ頭が働きませんよ」
「ちぇー」
 笑いながら並んで部屋を出る。暗い廊下の向こうで台所の電気は煌々と輝き、湯気の音がした。
 ふと、信二と目が合わせられない自分に気付く。軽口を交わしながら、顔は見ないようにしている。さっきまで、あんなに近くで見合っていたのに。不自然に鼓動がつめたく冷え始めた。恐れている、夢から醒めたとわかっているのに。

 2人の顔が、黒で塗りつぶされているような気がして、目を上げられずにいる。