真夜中未来
なんの前触れもなしに目が醒めた。窓から差し込む光は青く、まだ朝は眠りについている。
傍らを見れば犬飼、その向こうに、家主である御柳がベッドに寝ている。どうして目覚めたのかもわからない、平和な暗さの部屋だった。
けれど理由がわからないだけに、目を瞑っても意識は冴えたままだ。もう一度眠りに落ちるには時間が必要らしい。
立ち上がってドアを開け、勝手知ったる廊下を抜けレンジと流し台、冷蔵庫の隣に棚が1つと大きくは無い長方形のテーブルだけが設置されたキッチンに出る。
気分転換に、水分でも取ろう。
流しの中に置きっぱなしだった、昼間使ったガラスのコップを軽く洗い、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して注いだ。2人が寝ている部屋まで届くわけはないとわかっていても、蛍光灯を憚ったせいで、テーブルの上にあるスタンドだけが光源であり、人工的な弱い光に反射して、水が素っ気無く輝く。ほんの少し口に含むと、寝起きの味がして、不味い。
思わず手の甲で拭った。乱暴にテーブルに置かれて、コップの中身が気だるげに揺れる。
ふと、水の詰まったペットボトルと、……あとには、言うほどのものすら入っていなかった冷蔵庫を思い出す。
御柳の家で過ごすときの食料は、その都度持ってくるのが常だった。今日食べるものは、起きたときに朝食を済ませるついでに揃えてくるだろう。どうせ頻繁に泊まりに来るのだから、買い置きしておきたいと思わないわけではないものの冷蔵庫の使用を、御柳が嫌がる。
そこには最小限、水だけがいつも、扉のポケットにぽつねんと入っている。
家庭に関わるのを嫌がるのは、いつの御柳でも同じだ。仲違いしている間も、気にしていないわけではなかったけれどやはり現状は一向に変わっていないらしい。この年になってからもずいぶん訪れているのに、この家で彼の両親を見ず、話題としてすら出てこないことからそれは簡単に伺える。
しかし、それらのことをどれほど辛く思っても、出来ることなど少ない。せめてこうして彼の要求に応じて、たまに食と住を共にし、そして家庭に関わる部分に出来るだけ触れないことだ。現状維持が、自分の立場では精一杯だ。
昔から、そうだった。辰羅川に出来るのは自分の無神経で傷つけないようにすることと、せめて一緒に遊んでいるときぐらい彼らが彼らに優しくない事々を忘れられるように振舞うだけ。無力に疑問を、憤りを覚えないわけでもないけれど、何度自問自答を繰返しても、結局、できることはそれしか見つからなかった。
それどころか。
それは明確な意志ではなかったと何度言おうと、昔、自分が一時御柳と仲たがいしたことも間違いのない事実なのだ。
彼がどれだけそれに傷つくか、既にどれほど傷ついているか、わかっていながら。彼の反発に傷つくのが怖くて、近づけなかった愚かな自分が居る。そんな自分が、彼を助けたいと願うなどと酷くおこがましい。許されることではない。
5年前からのあれこれは全て過ぎたことだと、3人の間では認識している。それぞれに落ち度が、そして誤解があったことも確かだ。誰か1人が、自分だけが悪いのだと断じきれるほど辰羅川は独りよがりになれない。
けれどあの時、他でもない自らを庇って、無情に彼から離れた自分を、どうしても許せない。
あれは、あの縺れた糸をきちんとこの目に認め、ほどきなおすのは自分の役目だったのだ。どうしてだか、ここだけは独りよがりを自覚しながら辰羅川は思う。間違いなく、あそこで誤解を解くのは、2人を繋げるのは他の誰でも、まして運命の仕事でもなんでない、自分がやるべきことだったのだ。
思えば思うほど2人への負い目が、ずんと、この首にかかる。
もとより、辰羅川には2人への負い目があった。文句の無い家庭環境という、分けてもあげられない、増やすこともできない、自分たちでは改善することも出来ない、大きなものの所持である。御柳の両親は家にいることが少ない、犬飼と家族の間にはすれ違いがある。その分だけ、いつも辰羅川には2人より余裕があった、何かと、手伝ってやることが出来た。
それは、彼らを助けることは、持つものの義務だとずっと辰羅川は思っていた。
――嘘だ。そうやって、自分を騙していた。
ほんとうは負い目をそこで解消したかった。彼らのために、この余裕を使うから、自分が家庭で幸福なことを許してほしいと泣きそうにいつも、いつも2人が傷つくたびに強がるその背を見ながら願っていた。
だからあの誤解を解くのも、辰羅川の中では切実なほど自分の役目だ。余裕がある分、誰より気付かなくてはならなかったのだ、悲しい悲しすぎる誤解に。
それが出来なかった自分に、ただただ腹が立って仕方ない。
力任せにコップを掴み、水を喉の奥へ注ぎ込んだ。もう不味くは無かった。ただの水が、体内を潤していく。
いけない、夜は考え事を空回りさせる。無駄に、力を使わせる。もう寝てしまわなくては。けれど、眠れるのか。こんなに憤った心で。
何にもかにも、腹が立つ。
「――信二?」
びくりと身体が震えた。振り返れば、眠い目をした御柳。
「何やってんだよ、おめ。便所?」
「え、ええ。そのようなものですよ。ついでにお水を少し。御柳くんもどうですか?」
「んー、飲むわ。ちょうだい、そのコップでいい」
「はい」
開けて、注いで、手渡す。
反った喉の上で、喉仏がごくりごくりと動いていた。ぷはあと、聞こえるほどの息継ぎ。
「今、何時?」
「さあ。3時ぐらいでしょうかね」
「なんだ、そんなもんかよ。早く寝ようぜー、オレ眠すぎて頭痛ぇわ、なんか」
言いながら、御柳がキッチンの戸に手をかける。辰羅川もコップをもう一度流しに収め、後に続いた。
「それは普段から睡眠が足りてないんですよ。人の平均睡眠時間は7時間、それに加えてわたしたちは、ハードな運動をしているのですから……」
「あー、はいはいはいはい。寝ます寝るから寝るって」
殊勝な言葉に、思わず笑ってしまった。
「わかればいいんですよ」
未だ犬飼が眠る部屋に足を踏み入れながら、声を潜める。
「あ、こいつ腹出してやんの」
「布団を掛けすぎてしまったんでしょうか。暑かったんですね」
ったく、しょうがねえなあといいながら、御柳がぞんざいに布団をかけなおしてやっている。
「一緒に、暮らせたらいいですよね」
思わず、口をついてきた。
「はあ?」
「そのうちですよ、そのうち。わたしたちが、自活できるようになったら」
「オレらで?」
「そう」
「誰が飯つくんだよ」
「交代制に決まっているでしょう。お2人とも器用ですから、きっとすぐできるようになりますよ」
「こいつの作る飯とか、食えんのかよ。夕飯食パンとかごめんだし」
「作るようになったら、味覚も改善されるかもしれませんよ。掃除も、洗濯も交代制で。それぞれ分担してもいいですね」
「――本気? それ」
犬飼の寝顔を覗き込むように、しゃがみながら、御柳がぽつりと。扉側に立ったままの辰羅川に、その表情は見えない。
「ええ、とっても本気ですよ」
「……朝帰りとか、五月蝿そうだよな、お前」
「連絡さえ入れてくだされば、とやかく言いませんよ」
「めんどー……」
ぼやけた声で辰羅川を見ないままに言いながら御柳は立ち上がり、犬飼を踏み越えてベッドに向かう。もそもそと布団に潜る。けれど扉を閉めようと、辰羅川が背向けたのを見計らったように
「……3LDKぐらい?」
「ええ……ええ、そうですね」
辰羅川は微笑んで返し、自らも布団に潜った。眠気はゆっくりと訪れる。呼ばれたように、穏やかに。
眠りの沼にゆっくりと身を沈める2人に挟まれて、犬飼は3人で、騒ぎながら暮らす夢を見ている。