未来へ重なる
その日、大神さんに買ってもらったアイスを手に、わたしたちは家路を急いでいました。
何しろ、もう日が沈んでしまうのです。練習場にしていた川原から住宅街を抜けて、大通りに出て二車線道路の脇の歩道を駆けています。アイスが、棒から落ちてしまいそうです。けれど日が落ちるまでに家に帰れと、大神さんが仰ったので、わたしたちは笑いながら、それでも酷く急いでいました。
垂れてくる溶けたアイスのべたべたを、肌に甘く感じながら。
最後尾を走っていた犬飼くんの足音が不意に止まりました。笑い声を上げていた私と御柳くんは気付いて、立ち止まり犬飼くんを呼びました。だって、お日様はもう頭のほんの先しか残っていないのです。世界は紫色に近く、もしあれが全て黒になってしまうまでに玄関をくぐれなければ、大神さんが悲しい顔をするのです。
犬飼くんは、道路の向こうの歩道を見つめていました。大きなトラックがそれを遮るように走ったのち、私たちにも向こう側の人影が見えました。初め、大神さんかと思いました。だって、その頃わたしたちにとって、学ランと言ったら大神さんしかいなかったのです。
違いました。大神さんと同じ年の頃の男の人が3人、大神さんと同じような学ランを着てジュースの自販機の傍に立っていました。大神さんより、背が高いかもしれない人が2人、それより少しだけ背の低い人が(それはもしかしたら、大分、という域だったのかもしれませんが、どうしてかわたしはそれを少しだけと表現したくて仕方がなかったのです)1人。ジュースの缶を片手に、笑っていました。
その人たちには、とても悲しいことがあったのだと、わかりました。
笑っていましたけれど、それは悲しいことがあったので、少しのことに笑っていたのです。本当なら珍しくもなんともない、貴重でもないことが幸せで幸せで仕方が無くて、笑っていたのです。
それは、ある意味で、不幸と呼ぶのだと私は知っていました。
ああ、あそこには行きたくない、と切に願いました。
あそこに行かずに済むのは、簡単です。この道路を渡らなければいいのです。それでなくとも二車線で車どおりの多いここをわたるのは、とてもとても危ないのです。私たちの前には、ガードレールもあります。このまま気付かない振りをして、家路に向かえば良いのです。
もう、帰ろう、と言いかけて、御柳くんを振り返り、私はぎくりとしました。
御柳くんは一心にその3人を見つめていました。何を考えているのかは、わかりません。そして彼の前だけ、なぜかガードレールが途切れていました。それは危ないことなのです、とても危ないことなのです。なぜか、彼にだけ、危ないものから守ってくれるものが一枚少なかったのです。
帰ろうと、口に出したくて、ああ! だって日が沈んでしまうのです。夜になっても遊んでいる悪い子は、悪魔が連れに来るのです。怖いところへ攫われてしまうのです。
けれど喉がからからに渇いて、声が出ませんでした。汗が米神を伝い、顎から首へ流れていきました。握ったままのアイスがぼたりと、音を立ててアスファルトを汚しました。
御柳くん、帰りましょう、心の中でこんなに叫んでいるのに、ただただ道路の向こうを見つめる御柳くんには何一つ届きはしないのです。
日が落ちてしまいます。夜が、にたにた雫をたらしながらやってきます。それに触れてはいけないのです、それは
夜の雫が御柳くんの目の前にぽたりと落ちて、世界がぐにゃりと歪みました。トラックが走っていた道路が、御柳くんの元へ繋がります。犬飼くんが駆け出しました、わたしは手を伸ばしました。けれど、何一つ届きはしないのです。
そうして、救いは来るのです。夜まで遊んでいた、わたしたちにも。
御柳くんは道路の端に寝転んでいました。その目は誰も見ていませんでした。わたしたちは見ていました。命が消えていくおおかみさんを見ていました。見ていました。見ていました。見ていました。見ていたのです何も出来ずに見ていたのです何も出来なかったのです、夜の前に子供の私たちはあまりにも無力で、無力は罪でした。その罪で、わたしたちはあんなにも愛した神様を失ったのです。
アイスはもう、どこにもありません。
道路の向こうにいた彼らが、私たちを見ました。哀れむ目を向けました。地面が動き出しました。人々が凄惨な事故に騒然する中、私たちを地面が運びます。彼らの元へです。
嫌です、嫌です、嫌です嫌です!
彼らのところに行くのは嫌なのです、だって、そこに行くまで、御柳くんととても離れてしまうのです。御柳くん1人だけ、傷ついて無力に寝転ぶまま、どこかへ運ばれてしまうのです。嫌です、嫌です嫌です!
わたしたちはあそこへ行きたくないのです!
哀れむ目で、あの人たちは私たちを見ています。泣き叫ぶ私たちを見ています。運命は否が応もなくわたしたちを彼らに重ねていくのです。
「あ」
声と顔を一度に上げて、辰羅川が間抜けた顔をしている。
「何?」
ファンタを呷った口で御柳が尋ねる。大きなトラックが通り過ぎるのを待って、辰羅川が道路向こうを指差した。
「ほら、あの子達」
柔らかく笑った視線のさきを、ココアを片手に犬飼も覗く。
「何か懐かしいような気がしませんか?」
小学生が3人、それぞれアイスを片手にごっちゃになって道路向かいの歩道を走っている。1人が楽しげに行く道を先行し、あとを2人が笑いながら走っていく。背中で鳴るランドセルの音が、今にも聞こえそうな。夕方を、家路に向かって急いでいるのだろうか。
「あ、なんか、オレたちに似てる?」
「そうそう、1人だけ先走ってちゃうあの子、御柳くんにそっくりですよ」
「だったら、その後からついてくるちっけえの、お前にそっくりじゃん」
「嘘ですよ、あの頃、あんなに身長差なかったでしょう」
「いーや、あったね」
あっという間に、走り去ってしまう後姿を眺めながらそれぞれ勝手なことを言っている。
「一番後ろを走っていた子も、綺麗な顔をしていて、なんとなく犬飼くんに似ていましたね」
「……そうか?」
「あ、てめえ、シカトしやがって。お詫びにポカリ、1口寄越せよ」
「飲みたいならそう仰い。それにしても、微笑ましかったですね」
「あーゆう頃って、怖ぇもん、なんにもねえんだよな」
ポカリを受け取りながら微かに、苦味を浮かべて、御柳が笑う。
「……御柳くん」
咎めるでもなし、笑うでもなし、困った顔で、辰羅川が御柳に視線を戻す。
「今だって」
缶を自動販売機脇のゴミ箱に捨てて、とつぜん犬飼が先を歩き出した。
「とりあえず、怖ぇもんなんか、ねえよ」
早くついて来い、とでも言わんばかりの、遠慮のない足取りだ。
「ま、待ってください」
御柳の手からポカリをひったくって一息に呷り、慌てて辰羅川もその後を追う。御柳といえば、驚いた顔で取り残されて、そのまま。
追いついた辰羅川が犬飼の袖を引き、2人が振り返る。
「わたしたち、3人揃ってれば、怖いものなんて何もありませんよ」
悪戯な目を合わせて、幼い頃に比べれば……ほんの少し、だけ控えめな歓声をあげて2人は先を走り出してしまう。御柳もまだ中身の残るファンタをゴミ箱に投げ入れて、慌ててその後を追って走る。
「ちょ、待て……待てってこら!」
「家につくまでビリだった人は、アイス奢りですよ!」
「棒についたやつな」
「だっ、ずっりいぞてめえら−!」
後を追って走り出そうとした御柳はふ、と振り返った。
包帯を巻いた子供が御柳を睨みつけている。何を笑っていると詰るように。
「……あんさ」
御柳はまっすぐにその目を見返した。
「ここも、そんな悪いことばっかじゃないんだぜ」