ライブ・イン・メモリー

「母さん、ちょっと出かけてくるよ。夕飯はいらないから」
「あら、遅くなるの?」
「今日中には戻るよ」
 出迎えに出てきてくれた母に靴べらを渡し、戸に手をかける。車のキーが手の中で鳴った。開けた戸の向こうから、雨の香りが吹き込んだ。
 玄関先の躑躅がそぼ濡れていた。この間まで紅色や白の、大ぶりの花を咲かせていたのに、いまは小さな葉が味気なく夕立にもてあそばれた惨めな様を曝しているだけだ。
(やだなあ、季節感、なくなっちゃって)
 ずいぶん前に止んだ雨に濡れたままの、車のドアに手をかける。夏はいつ、その息苦しい手で辺りを覆い始めたのだろう。クーラーの効いた部屋にいれば、暑さにさえ気付かない。ハンドルの下に鍵を捻じ込み、エンジンをかける。背もたれに手をかけて覗いた後ろに障害物はなく、車庫から車を出すのは容易かった。
 アクセルを踏み、湿った道路にタイヤを滑らせる。狭い住宅街の道を数分も走れば、国道に出た。前を譲ってくれた白のワゴンに短くクラクションを鳴らし、流れに合わせて速度を上げる。慣れた道は誘うように、ひろがっている。携帯電話が鳴った。
「……はい。……やだなあ、逃げたりなんてしませんよ……あと15分ぐらいじゃないですか? ……はい、……どうなんですか、それ、大人として……車ですよ……はいはい、じゃあ、またあとで」
 古い先輩の我侭を軽く往なして、ウィンカーを出す。右に曲がると、また車が減った。規則的に、アクセルから足を離したり、ハンドブレーキを引いていると頭が空っぽになる。
 自然思考の枝葉が伸びるのは、突然の呼び出しについてだ。
「あの人も、唐突なんだもんな」
 独り言が零れる。一人の車内だ、誰が聞いているわけではないとわかっているけれど、思わず口を抑えた。
 黙ってアクセルを踏み込む。道路の水をタイヤが裂く音が窓の向こうから響いた。人の影さえ疎らな道は、いくらスピードを上げても事故さえ起さなければ迷惑にはならない。ぐん、と踏み込む。このまま、空へ飛べてしまったら、どんなに面白いだろう。


 夜のモノクロの風景の中で、橋の上の道路の車が、虫の大群のように赤く連なっている。対して、その下に色味は少なく川はコールタールのように、重苦しい黒でゆっくりと流れていく。橋脚の下だけが明るい色を持っていた。緋色の提灯が、夕陽のように灯りを帯びる。白熱灯の黄色い光が、屋台の中のおでん汁をきらきらときらめかせた。白く透き通る大根も、そのお零れに預かり光っている。
「親父、その、大根」
「おうよ」
 使い込まれた箸がさっと大根を掴み、皿に乗せたところで外から暖簾が上がった。白い顔が、呆れたように笑っている。
「電話ぐらい出てくださいよ、先輩」
「お? おお、悪ぃ。切ったあと、すっかり忘れてたわ」
 口に入れた大根を飲み込み、羊谷は携帯電話を確かめた。
「車、どこに止めたらいいですか?」
「今どこ止めてんだよ?」
「土手の上に」
「じゃあ、そのままにしとけ」
「相変わらずですね」
 そう笑うものの、車を動かしに行くそぶりもなく、白雪も色褪せた丸い椅子に腰を降ろす。
「僕、がんもと白滝で」
「お前も相変わらず好きだな、そういうもん」
「え?」
「白滝。なんつうか、麺類ってわけでもねえけどよ」
「ああ」
 箸を割りながら、合点する。
「そうですね。そんなに簡単に、人間変わりませんよ」
「そうかい。にしても、若いモンの言うことじゃねえな」
「もう22ですよ。学生でもありません」
「へっ。オレから見りゃまだまだヒヨッコよ」
 箸で大根を割り、上から口に放る羊谷を、そっと盗み見る。無精髭がちらちらと陰になっていた。
「……で、ご用件は? まさか、可愛い後輩に奢ってくれるのが目的というわけでもないんでしょう? いきなり、呼びつけておいて」
 焼酎を煽った口端が、にやりと釣りあがる。
「相っ変わらず、可愛くねえガキだな」
「どうも」
 がんもを小さく噛み千切る白雪の横で、羊谷が声を上げた。「親父、次ぁこんぶとはんぺんくれや」屋台の奥から伸びた手が、ちゃきちゃきと動く。
「球頭のオヤジ、覚えてっか」
 灯りに黄色く染まる皿を受け取りながら、羊谷は尋ねた。
「……ええと」
 しらたきを頬張った口を上に向けて、白雪が考え込む。幾度か宙に視線を這わせ
「ああ、あの、元気な……御年いくつになられるんでしたっけ?」
「もう60は過ぎたろうな」
「そんなにですか」
「あの元気なオヤジがよ、とんでもねえこと言い出しやがった」
 薄笑いを浮かべる羊谷の雰囲気が硬い。
「県対抗総力戦、だとよ」
「……というと?」
「甲子園行った行かねえ関係なしに、それぞれの学校から使えるガキ選んで、県別で戦わせようっつう話だ」
「それはまた……斬新な提案ですね。いつからですか?」
「今年だ」
 ミン……と、何を間違えたか、蝉が鳴いた。
「今年って……もう、夏は」
「そうだ、この土壇場に来て思いつきみてえに言いやがった。つまんねえ反対が出る暇を潰したってとこだろうな。相変わらず食えないじじいだ」
 汗をかいたグラスから、透明な酒が羊谷の喉奥へ消える。
「それで、それが、僕にどう?」
 関係あるんですか? と、言外に尋ねる白雪の声に棘がある。
「そう尖んじゃねえよ」羊谷は軽くいなして、「親父、がんも」と皿を出した。
「初めはな、村中に来た話だったんだよ」
「?」
「けどなあ、あいつ、自分のとこのガキ贔屓しかねねえって断りやがった。変わってねえ、相変わらずの甘ちゃんだよ、あいつはよ」
 提灯に笑い声が纏わりついて消える。探る目を隠そうともせず、白雪は先を待った。
「で、よりにもよって後釜にオレを指名して断りやがった」
 懐からケースを取り出し、タバコを抜き取る。薦められた開け口から、白雪も借りた。ライターの音が鳴る。一瞬の光の後に放られたそれを掬いながら、羊谷を見た。
「だがよ、オレもそんな面倒くさいことやる趣味ぁねえ。そういうのは、若いもんがやるこったろ」
「僕に……引き受けろと? その埼玉選抜の監督を?」
「そういうこった」
 ふうと、紫煙が上がる。火をつけて、ちりちりと音のしそうなタバコの先を目で追いながら
「お断りします」
「おいおい、火まで借りといて、そりゃねえだろ」
 おどけた羊谷に、目を眇める。
「なんなら、買ってお返ししますが」
 100円ライターを相手の懐に差し戻す。吸った煙は苦く舌に絡みつく。
「っかー、相変わらずだねえ、お前も。まだ引きずってんのか? あの大口叩いてばっかのガキをよ」
 腹が立った。「そういう言い方は、不愉快です」
 笑った目で、羊谷が白雪を見る。あなたが大神の何を知っている? 自分と、大神はバッテリーで、大神は死んで、それだけ。それだけしかわかってないのに、わかったような口が気に障る。そんな軽い屁理屈で、自分を動かそうというのか。甘く香る副流煙を振り払うように、横を向いた。
「お話はそれだけですか?」
「お前がそうも頑固にあの球に操立てしてよ、喜ぶとでも思ってんのか? あいつが」
 自分のしていること、野球を離れたこと、全部自分のことだ。自分が決めたことだ。自分のしていることを、何よりも考えているのは自分だ。羊谷は優位を勘違いしている。何もかも白雪よりもわかっていると、そう態度に出ている。白雪が大神のことを考えたことがないと思っている。何も、そう、白雪に比べれば何も、このことについて考えてないくせに。説得するために、思い通りに監督にするために口を出しているだけの癖に、何もかも分かっていると思っている。髭の口が吐き出す、鼻につく煙に吐き気がした。
「ふん、考えた挙句に、そうやって虫みてえにじめついてるっつのか?」
「黙ってください。あなたに、何がわかるって言うんですか」
「お前よかわかるさ、ガキじゃねえからな」
「黙ってくださいっ」
 机がひどい音で鳴った。目に見えるほどの減りもない煙草を投げ捨てて、色褪せた天板を叩いた拳から血が引いていっそう白い。頬だけ赤く、他はやはり遊女が白粉を刷いたように血の気ない顔から羊谷が目を逸らさない。――まだ、己が偉いと思っている。
「……帰らせてもらいます」
「おいおい、まだ宵の口だぜ?」
「あなたといるのは不愉快です。ご用件はお済みでしょう? ここにいる意味がありません」

「――大神を生き返らせる方法があると言ったら、どうだ?」

 目玉が外れて、転がっていくかと思われるほどに瞠目した帰りかけの肩越しの顔を、にやりと羊谷が笑う。
「……は?」
「なあ、どうする?」
 白雪は握り締めていた手に気付いて、解いた。唇を軽く引き上げる。
「何を、いったい、バカなことを」
「まだボケるのには早ぇさ。どうする?」
 立ち去りかけた中腰のまま動けない。期待する心を、すんで理性が抑え付けた。
「……怪しげな宗教なら、他を当たってください」
「つれねえなあ。それにそんな話がしてえんじゃねえよ」
 空になった羊谷のコップに、店主が無言で酒を注いだ。羊谷の目が酔っていないのに気付いて、ぞっとする。正気の狂人に付き合っていられるか。今度こそ、暖簾を手の甲で上げた。
「失礼しま……」
「選抜にはあいつの球を投げるガキがいる」
 関係のない話題に、暖簾を頭にかけたまま白雪は今度こそ固まった。何が作用したのだろう、何年も前の、片隅の記憶はすぐに掘り出された。
「ノート! あのときの小学生……っ。でも、あんなに、小さいのに」
「何年経ったと思ってやがる、浦島太郎かてめえは」
 何年? 22から17を引けば5だ。嘘だ、もう5年も? 生まれた子供が、幼稚園を卒園するじゃないか。5年? 本当にそんなに何度も夏があったか? 俯いた視界には、いくら探しても過ごした夏が浮かんでこない。川砂利と、いまだ煙を上げる煙草だけが悲しげに投げ出されている。
「あの子たちが、大神の球を? 本当に?」
「ぜんぜんなっちゃいねえがな。俺の知らねえ球も混じってるが、基調になってるのは間違いねえだろう」
「大神の、球……」
 蛟竜、飛竜、天竜、白竜……久々に思い出した言葉の懐かしさが、場合も関係なしに、喉の奥から涙腺を伝って込み上げる。思い出に飢える自分が、帰る意思をやさしく奪った。
「まだ、あいつの球は死んでねえんだ」
 恍惚とした目を、羊谷はしていた。緩やかに浮かぶ笑みは、言葉なくともさきほどのまでの憎まれ口の逆の意味を呟く。黙って、白雪は俯いた。
「じゃあ、生き返らせるっていうのは……」
「人は忘れられちまったときにもっぺん死ぬって、よく言うだろ」
「……」
「なら、逆はどうなんだ? 死んだあとでもそいつの存在が大勢に刻まれれば、生き返るようなもんだと思わねえか?」
 それは欺瞞だ、と怒鳴る自分の声が追いつかない。
「……どうする、気ですか」
 すぐ傍に落ちていた、いまだ火の絶えぬ白雪の煙草を、羊谷が踏み消した。
「大神の球が使えるっつったって、そいつはまだまだ発展途上だ。さっきも言ったが、球も何ひとつ完璧じゃねえ。だがよ、素材は充分だ。たとえ球を完成させなくとも、いつかは己の手でもプロに行くだろう」
「……」
「そのガキに、あえて大神の球を、完璧に叩き込んだらどうなる?」
 たとえ大神自身に気付かなくても知らなくとも、人は見るだろう。そのプロの向こうに大神の球を、存在を。それは刻まれる。記憶に、心に。おそらく直接知る人が死に絶えたあとまでも。
「――――」
 それは、諦めていた夢。誰もが大神を見ること、知ること。あの美しく力強いフォームを、憧れを背に乗せて飛ぶ球を、一心に人々が見ること。誰もが、それを、讃えながら。
 道路にぶちまけられた血液に、沈められ塞がっていた望みが、したり顔で手を伸ばし心をべったりと塗りたくるのがわかった。掴まった。意味のないとわかっている抵抗を堪えきれず、白雪は目を伏せた。
「僕に、何が出来るって言うんですか……」
「言っただろう。球は完璧じゃねえ。絶対的に何かが足りねえ。たまに覗いていただけのOBの俺じゃわかんねえことも、お前にならわかるかもしれねえだろ」
「だったら、わざわざ監督になんてならなくても」
 個人的なコーチで充分だ。
 可能な限りその少年と関わりたくなかった。利用するのだ。自分の愛した球が人が忘れられるのに、自分が死んだときにでももう一度死ぬのに耐え切れず、無垢な少年を恥ずかしげもなく利用しようとする、この心だ。こどもの傍にあって、きっとその幼い命に利はない。球を叩き込むだけで、充分だろう。考えが淀み、その少年に他の場所でも大神であれと、願いそうな醜い自分を見たくなかった。
 ため息を紫煙で吐き出した羊谷が、上目に白雪を盗み見た。
「引きずってんだよなあ、これみよがしに。でっけえ傷抱えてよ、ガキの弱さで見ねえ振りしてやがる。痛々しくてしょうがねえ」
 罪悪感に落としていた視線を、ゆっくりと白雪は上げた。黒だけが強く残り、それ以外が白熱灯に薄く透けた瞳がぼんやりと羊谷を映す。
「それが三匹だ、三匹。前途有望なやつばっかが、あいつの死に捕らわれてやがる。あいつにじゃねえよ。もうどうしようもない、あいつの死にだ。年寄りはよ、そういうの、見てらんねえんだわ」
 煙草を持ち替え頭をがりがりと掻く手は、羊谷の憂鬱を夜気に滲ませた。
「……あいつらを、助けてやっちゃくれねえか。これは俺の個人的な頼みだ」
 しん、と、開いた隙間にいつから鳴き出したのか、鈴虫の声が割り込んだ。
 川を渡った風が屋台に強く吹き込んだ。ドブ臭さが目を瞑ったせいで敏感になった鼻につく。暖簾がばさばさと棒にしがみ付き鳴き騒いだ。びゅうびゅうと踊り狂う風が止むのを待って目を開けると、煙草の燃える赤がまっすぐに飛び込んでくる。翻弄される髪に気をとられる羊谷の指先から、逃げ出すように砂利に落ちる。


 ふわりと小石の間から伸びる紫煙は、驚くほどに長く遠く、昇っていった。
 火の赤に目を釘付けたまま動けない白雪の代わりのように、天国を一目散に目指して。