水底を知らず。
 飛ぶようにステップを降り、扉を閉める。潮の香りを感じながら、ばたんと乱暴な音が立つのを走り出しながら背で確かめる。ワゴンを後にして、大小の正方形を重ねた模様のタイルの組まれた斜面を駆け下りた。たどり着いた砂地にふかりとスニーカーを受け止められた。
 焦燥と共に見回す砂地は広く、探したい海岸線を隠して堂々と地平線が起伏を描いている。ビニール袋やコーラの瓶、ハンバーガーの包み紙たちに侵食されながら、それでも景色は白い。柔らかにうねりを形作りながら、雪が降ったばかりの大地のような澄ました顔をしていた。
 走るために力をいれた踵が、そこに沈む。前に進むたびに、砂が凍ったままの雨に見まごうばかりに舞う。靴の隙間から入り込みじゃりじゃりと靴下にまとわりついた。足の指の間にまで入り込んでくる細粒の不快さに、いっそ靴を脱ごうか逡巡する。その間に、もしかしたら。
 らちもない想像に、ちいさな不快を忘れることにする。
 遠くにやっと海が……まるで机の上に薄く零れた水のように……見えた。表面が歪な楕円に太陽を反射し、きらきらと輝いている。
 その端に、海に比べてあまりにも小さな、影、
「――ばくん!」
 僕は目を瞠り、一瞬おいてそう叫んだ。足を踏み込む。速度を上げる。息が切れた。運動不足だ。けれど衝動と不安が、慣れない砂地に疲労する足を容赦なく振り上げさせる。
「司馬くん、司馬くんっすか?!」
 薄く広い背中を覆うストライプのシャツ、砂に塗れて今にも固められそうな黒いズボン、潮風にさらさらと揺れる青い後ろ髪。司馬くん以外であるはずはないのに、街中だったら迷惑だろう、金切り声を上げる。
 乱暴に肩を掴み、顔を覗いた。
「良かった……」
 黒いサングラスに多くを隠された顔形を確かめ、両肩をつかんだまま、安堵に思わず俯きため息をつく。
 司馬くんは不思議そうに、ちいさく首を傾げた。
 さがして、くれてたの?
「そうっす。家に行ったら、居なかったっすから。心配したんすよ」
 そうだ、メールを打たなくちゃいけない。ポケットから携帯を取り出す。ピピピピ、とボタンを慣らし、ディスプレイの中の封筒がやっぱり二次元のポストに吸い込まれ、送信の完了を確かめて閉じる。
 一仕事終えたつもりで、司馬くんの顔を見ながら息をついたのと、電子音が鳴ったのは同時だった。
『一発殴っとけ。犬と辰には俺が送っとく』
 タイトルにそれだけ。まさか本当に殴るわけにもいかず、度重なる失踪と捜索でとうとう大学の講義を抜け出せなくなり、でもとても心配していた猿野くんや犬飼くん、辰羅川くんの気持ちを司馬くんに渡した。
 ありがとう
 電気の動きが形作るメッセージに、司馬くんはそう微笑う。ぱちりと閉めて、僕に手渡す。返された小さな機械を、ジーンズのポケットにしまった。
 あどけなく砂で汚れ、塩水に浸かったまま司馬くんは、にこにこ笑ったままだった。腕はだらりと、寄せてから返ってきた波にひたっていて、ボタンの閉まっていない袖の裾が歪んで揺れている。
 軽い水音がした。ぺったりと座り込んだお尻の横に畳まれた膝のちょっと手前で、さっきまでは止まっていた波が、その腿までも濡らし始めていることにようやく気付く。潮が満ちてきているのかもしれない。
 それでなくても真冬の寒い海に、濡れながらいつまでも居るわけにはいかなかった。
「司馬くん、帰ろうっす」
 司馬くんが首を傾げた。
「どこに? 僕らだって、いつかはあそこに帰るじゃないか」
 明瞭な発音で、司馬くんは言い切った。驚く僕に向かって、純粋に答えを求めて笑ってみせる。幸せそうに見えた。
 とっさに黙った。違う、言葉が見つからない。
 僕らが今果てを確かめられないぐらい、この海は深いけれど広いけれど、所詮向こう側にあるのは習慣や肌の色も何も違う人たちが住む、けれどまぎれもない生きた人の住む、楽園でもなんでもないところだ。けれど司馬くんはそんな話をしていないと少し考えればわかるのに、本気でアメリカのことを口にして突きつけるのは、あまりにも惨い、と自分で思った。
 『浪のしたにも都のさぶらふぞ』って、知らない?
 僕が黙っているので、くぐもった柔らかな声はそう重ねた。
 苦笑する。冗談を言われて、冗談で返すみたいに。
「それは、子供のための嘘っすよ」
 それから少し、司馬くんは黙ったけれど僕は帰ろうと、二度は促さなかった。だって、彼は子供じゃない。僕の言いたいことだけ、わかってないはずない。
 困ったように、困った子供をあやすように、司馬くんがまた口を開ける。
 そうかな
「そうっすよ」
 兎丸はこの向こうにいないのかな
「いないっすよ。兎丸くんがいるのはお墓の下か、でなきゃ」
 思わず上を見上げたけれど、信仰する神を持たない僕はそれ以上口に出来なかった。
 ぱしゃり。司馬くんが、水を両手で掬い上げて、空へ舞い上げる。冬の強い太陽の光に、まるで大粒のダイヤモンドみたいに輝いている。
 水が冷たいよ。しょっぱい。潮が引くと、砂がいなくなって、変な感じがするよ。
 司馬くんは、そう呟いた。さきほどまでの笑顔は、つまらなさそうにしぼんでいる。何度も何度も繰り返す水遊びはやがて司馬くんのシャツ肩や胸を濡らして、ただでさえ細くなった体の見目をみすぼらしく痩せさせた。

 僕の悲しいとまではいかない葛藤や司馬くんの青い唇を顧みない水音の明るさは、誰かの笑い声に似ている気がする。

 けれど水底に国があることを、そこで誰かが幸せに暮らしていることを、僕は信じられない。海に消える仲間に取り残されるのはもう二度と耐えられなくて、あと30分もしたならば司馬くんをつれて埼玉へかえるつもりだった。