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水を混ぜた墨みてえな夜の中で、ごそごそと音がする。
腹のあたりにひっついてる兎丸が、小さく唸って、息の音が聞こえた。
それより向こうでさらりと、誰の前髪の落ちる音。柔らかな笑い声。どうしても思い出せないのが面映い。でも、眠くて目が開けらんねえ。このゆったりとした眠気が惜しい。誰だっけ、柔らかで優しい、降ってくる声。
なんで、そんな楽しそうなの?
「――……ね」
投げかけられる別れの言葉。まだ行くなよ、ああくそっ!
ほんの少しだけ、一瞬だけでも、目を。
「……キャプテン?」
「まーだ寝ぼけてるのですかあなたは…」
呆れた顔して盛大にため息をつく子津の向こうで、辰羅川が冷ややかな目を向けてくる。
オレの腹を枕にして寝ていた兎丸が、ふわあ、と平和な欠伸をあげた。よりかかってた棚の上では、犬飼が目を擦っている。隣で寝てた司馬はさすがというかなんというか、サングラスもつけていつも通りだ。
とん、と犬飼が埃を立てて、床に飛び降りる。
それに対する八つ当たりのように、辰羅川がオレに続けた。
「猪里先輩も、虎鉄先輩も、真面目に授業を受けてらしているころでしょう。こんなところには、いらっしゃいませんよ」
「まさかみんな、僕らが行ってからノンストップで寝てたんすか…?」
「信じられませんね、まったく」
思わず、兎丸と顔を見合わせる。
朝練が終わって、珍しく始業まで時間が余った。朝は屋上の鍵も開いてねえし、日当たりが悪い代わりに滅多に人もこない理科準備室でダベってたら、うっかり鳴っちまったチャイムに子津と辰羅川は走ってったけど、取り残された犬飼も、動く気がハナからなかったらしい司馬と兎丸も、『二時間目からでいいか』ということで、昼寝でもしようかという話になった。
そして、今。
何時だ、いったい?
「本当に……もう……」
もう一度、泣きそうな顔で深々とため息をつく子津の手には、深緑の弁当包み。
……弁当包み?
「まさか、今、昼休み?」
思わず、ひきつり笑いで訊くと、子津が力なくこくりと頷いた。兎丸がにっこり笑ったまま、乾いた笑い声を上げる。
こりゃ、午後は説教で潰れっか……?
思わずオレたちの青褪めた心境を汲み取ったのかただ単に諦めたのか。何も言わずに優等生二人は、埃を払って床に座った。
「ほら、できる範囲で今の授業をお教えいたしますから、早く食べてしまってください」
「なあたっつん、この部屋で喋ってたの、お前ら二人だけ?」
「それがどうかしたんすか?」
怪訝に片眉を上げて見せた辰羅川の代わりに、子津が首を傾げる。
まさか夢うつつでお前ら以外が喋ってるのを聞いた、とは言えずに曖昧に答えた。しかも、その喋ってた人物が人物だ。仔細を話した途端に、かわいそうなものを見る目で見られそうだ。
「僕らが入ってきて、猿野くんすぐ目が覚めたみたいっすよ。他に誰かがいた風もなかったっすし」
「そうなの?」
「そうっすよ」
弁当包みの結び目を解きながら、自分に納得するように子津が何度か頷く。辰羅川も何も言わないし、間違ってはないんだろう。
未だ目が覚めてないのか、なんとなくもっそりとした雰囲気を保ったままの犬飼が、後ろ頭をかきながら
「とりあえず、牛尾主将が、いたような気がした」
「……まだ寝ぼけてるんですか、あなた?」
思いっきり、たっつんが犬飼を睥睨した。ずっと一緒にいたのに、犬飼だけサボったのを相当根に持っているらしい。
それがわかったのか、居心地悪そうに口元をへの字にしたまま、犬飼は先を続けなかった。
「牛尾主将も蛇神先輩も、去年卒業なされたのにそんなに気軽に十二支に、しかも授業中こんなところへいらっしゃるわけないじゃないでしょう。馬鹿なこと言ってないで、はやく昼食を済ましてしまってください」
急かされて、それぞれ鞄の中の昼食を取り出す。 売店か迷ってたけど、こんなことになったんなら途中のコンビニで買っといてよかった。
カツ丼をかっこんでいると、司馬が携帯の画面を犬飼へ突き出していた。思わず首を伸ばせば、日付はいまさっき、差出人は離れて久しい金髪の人。
何が送られたか簡単に予想のつくたわいない世間話の返事は、司馬も同じことを感じていたということと、別に牛尾主将と蛇神先輩が事故って霊になって出てきたわけじゃない証拠だった。
兎丸が横から覗き込んで、箸を咥えたまま頷く。
大仰に取り立てるほどじゃない、日常の中のちいさなありえないことを共有して、オレたちは目配せしあった。
腹いっぱいになって出た数学の授業で、机に突っ伏して目を閉じた。墨を水で薄めたような暗闇に、一滴垂れた、夢の残滓。
『いまのうちに、たくさん、仲良くしておくんだよ』
『時は無常也』
あれは、いつか言われた言葉だったのだろうか。思い出せない。
まるで、生まれたばっかの犬ッコロの兄弟みてえに寄り添って寝てたオレたちを、優しく眠りへ背を押す調子。皇かな、柔らかなテノールの笑い声二重奏。
いつか掴み損ねた、きらきらした欠片を溶かした言葉は、今またゆっくりと、薄闇の中へ降り積もった。
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