幽霊屋敷になりかけた
艶やかな肌をした、檜の階段を登る視線を上げると革靴を履いた白い靴下が、2足。
先を争うように駆けていく。
獅子川はそれ以上、上を見ようとは思わない。だから視界の上端で、いつもちらちらと古風なプリーツスカートが揺れているのが気に障る。子供の、少女の足だ。二対の足は笑い声を残して、階段のカーブを曲がって消えていく。
ちらりと、消えた方に俯きがちに目をやって獅子川は階段を登りきり、左へ曲がった。すれ違った白いエプロン、黒い長袖のワンピースの女性が「いらっしゃいませ」と頭を下げるのに、目も向けずに通り過ぎる。ふわりと気配が背中で消えた。
両腕を広げても端に手のつかない廊下でドアを4つ通り越した。3つめのドアの正面で老婦人が微笑んでいた。
突き当たりは黒々とした、重厚な木作りの両開き扉だ。角に合わせて、額縁のように文様が掘り込まれている。双方の真ん中には竜胆の花が物憂げにその頭を垂れていた。
開ける。部屋の壁は一面、模様で埋められている。青地に金だ。控えめなその線は決して下品ではない。
バスタブの足のように猫足を描く、蔦のような模様が一面絡みあい、獅子川を広く囲っていた。
その一面と向かい合い、鼻を鳴らす。
蔦の一部が段々と盛り上がり、トカゲになって舌をちろちろと蠢かせた。
「獅子川くん、いらっしゃい!」
扉が開いた音に、しゅう、とトカゲが蔦に戻る。
「おッう」
壁についた手に力をいれて、獅子川も振り返った。
牛尾が微笑む。
「ごめんね、今日はちょうどみんなに暇を出している日だったから僕しかいないんだ。だから、こんなものしか用意出来ないんだけど」
扉を開けるのに、後ろに残しておいたのだろう。廊下に戻った牛尾がワゴンを押してくる。湯気の立ったポットと2つのカップ、白い皿に盛られた焼き菓子。
どの食器取っても高価は間違いないだろうが、特にポットは細微な細工がし尽くされていた。触れれば取れてしまいそうな細い取っ手、それに刻まれた緑色に染められた茎の文様、胴の部分には豪奢に、けれど決して下品ではない薔薇が薄い桃色であちらこちらに描かれている。獅子川でもわかる、美しいものだった。
そのポットを支えるワゴンの車輪に、小さな女が血まみれでしがみついていた。
獅子川はクッキーを摘むついでに、それを踏み潰した。
きしゃあ、と鳴いて消える。
「あれ、美味しくないのかな?」
無言でぽりぽりと貪る獅子川に、心配そうにというよりは不思議そうに、牛尾が尋ねた。
「あァ? うッめえとか美味くねえとか、オッレにわかッかよ。んなのが知りてえなら、鹿目のが適当だろ。オレは喰うだけだッつの」
「ううん、それならいいんだけど……」
首を傾げたまま、それでも牛尾は納得したらしい。丸テーブルに移したポットとカップで紅茶を注ぐ作業に、専心始めた。
その俯きがちの項に、白く華奢な手が絡まる。
その手首から肘まで、血が細い筋で滴っていた。ぽたり、ぽたり、ぽたり。絨毯に染みが出来る。手は牛尾の喉仏に、人差し指をかけた。見せ付けるように、なぞる仕草は艶かしく
それだけに、忌々しい。
肘の先はない。見えない。だから獅子川は、遠慮なくその空をなぎ払った。
「え、」
牛尾が驚いて、ポットを取り落とした。音も立てずに、真ん中から白の陶器が割れる。明るいオレンジ色であるはずの中身は、暗く絨毯にしみこみ、血の跡を隠した。
高く、女の笑い声が、響いて段々に消えていった。館を覆っていた重く気分の悪い空気が一掃されたのがわかる。
(それだッたんか)
小さく、安堵の息をつく。
一方、背中の後ろで突如思い切り腕を振るわれたことになる牛尾は場を把握できぬまま、ぱちくりと獅子川と、振るわれた手を見比べた。
「……虫?」
「だッな」
全て、いなくなった。
獅子川は上機嫌で答える。
存在したらしい虫に、気味悪げに牛尾が肩越しに左手で自分の背を掃った。
「嫌だなあ、どんなの? 羽虫? 1日だけでも、入ってくるものなんだね。やっぱり人が居なくなるのは問題か……」
自分なりに、この誰もいない空間というのを楽しんでいたらしい牛尾がつまらなそうに言った。
「いッち日で入り込んだわけじゃねえみてえだッぜ」
「え?」
割れたポットに目を落としながら、そういい捨てる獅子川に牛尾は問い返した。答えは戻らない。
「こッれ。悪かッたなッ。新しいんだろッ?」
代わりに、しゃがんで破片をつまみ、獅子川は尋ねた。
「君が、そんなこと気にするなんて珍しいね?」
そもそも壊れたということに意識が向いたことが珍しい、と言わんばかりに軽く目を瞠った牛尾から獅子川は顔を逸らす。
「ちょ、ちょッとなッ?」
「へえ」
何にか、少しだけ嬉しげに牛尾が微笑んだ。獅子川と向かい合うようにしゃがみ、同じように破片を手に取る。
「確かに、3日前に手に入れたばかりではあったんだけどね。でも気にしなくていいよ」
かちゃり、と牛尾の手の中で重ねられた破片どうしが触れ合った。
「……大体、君に気にされた方が気味悪いし」
「んだとッ?」
「本当のことじゃないか。これを気にするなら、正直玄関の正面にあった壷のことを気にして欲しいんだけど……あれ、いくらしたか聞きたいかい? 値段が問題じゃないんだけどねえ」
「いッや、いいッ!」
すっかり記憶彼方へ忘れ去っていた過失を掘り返され、慌てて話を変えようと立ち上がる。
しゃがんだままちいさく、牛尾が笑い声を漏らした。
「なッんだよ」
「いやね、君が何か元気が無いと思っていたら、虫のことだったのかい」
途端ぶすくれる獅子川に、さらに笑いが続く。軽く、腹まで抑えて。
「笑うなッ」
「だって、クッキー食べながらむっつりしてるから何かと思ったら、羽虫だなんて」
いつの間にやら、羽虫に決定してしまったらしい。
「うッせーぞッ」
「痛い、痛いって」
笑い混じりの声で、叩かれた頭を抑えて牛尾が抗議する。怒りが収まるはずもなかったが、バカらしくなって諦めた。
目じりを拭いながら、牛尾が立ち上がる。
「僕、新しいポット持って来るね」
「……」
口を噤んでそっぽを向いてしまった獅子川に、笑顔で手を振って、大き目の欠片を拾い上げた牛尾が部屋を出て行く。
獅子川は眉間に皺を集めたまま、足音が遠ざかっていくのを確かめて携帯を取り出す。操作した画面には市外局番からの電話番号。携帯電話のそれではない。
「あ、オレオレ」
『今その様な詐欺が横行していると聞いたが……』
「いッつの話だッ!」
『して、首尾は?』
「……ポットだッたらしいぜッ。割ッたら、薄気味悪い空気がなくなりやッがッたッ」
『そうか』
「欠片、あいつが持ッてッちまッたけど平気か?」
『そのぐらいなら問題はなかろう。主が一部分持ち帰れれば良い。祓いはそれで事足りる也』
「たッく面倒くせえなあ……大体、何でてめえで出て来ねえんだよ」
『人の話は聞けと3年間五月蝿く言うても覚えなんだか。我が自ら向かっては、良からぬものは身を潜めてしまう。だからお主に頼んだのであろう』
「そーだッけか」
『……牛尾も難儀な事也』