「鹿目くんが?」
 突然の訪問を伝えたニルギリが、肯定に頭を下げる。彼に限って予告もないなんて、珍しいこともあるものだ。
「ゲストルームに通してくれるかい」
 言い置いて立ち上がる。少々の準備が必要だ。着いたといっても玄関先のようだし、まだ時間はあるだろう。一足に先に客間に向かい調度類を整える。落ち着いた頃に、鹿目くんがドアを開けた。
「やあ、いらっしゃい、珍しいね突然になんて」
 言いながら椅子を勧めた僕に、鹿目くんは動かなかった。眉間に皺を寄せて機嫌の悪い顔をしている。いや、機嫌が悪いで済まないかもしれない。
 何かに対して、ひどく怒っていた。
 まさか、僕は今日彼と約束していたことを忘れていたんだろうか? ありえない、僕が忘れたとしても、屋敷のみんなは覚えているだろう。他に何か落ち度があったかと、僕は取り乱し彼の顔を覗きこんだ。
 目のあった鹿目くんが狼狽したように身じろいで、俯く。
 掻き消えそうな声で『それ』を僕に告げた。



 僕に不調が表れたのは、それから3日後だった。
 前触れもなく、突然せり上がって来た。覚えのない感覚ではなかった。駆け込んだお手洗いに、細かくなった食べ物が変に甘ったるい、それをかぎ続けていればまた吐意を催しそうな匂いが漂わせた。
 こぽこぽと消えていくそれらを見送っても、まだ、理解しきれなかった。それぐらい突然やってきた吐き気は、吐瀉物とともに流れ去っていった。
 首を捻れども、理由は浮かんでこない。誰かに知れたら大事になるだろう。煩わしい。黙って戻った部屋には、変わりなかった。具合が悪いわけでもないし、どうしたんだろう。こぽこぽと、渦を巻いて消えていく水の音が、いつまでも耳の中で息苦しく反響していた。

 一定の間隔をあけて、吐き気は規則的に訪れるようになった。この頃になれば、やっと理由に気付く。
 この吐き出している食べ物は、僕のおなかの中で悲しみと固まったんだ。もしかしたら、苦しみも含まれるかもしれない。ともかくこれは、僕の中から悲しみを追い出すために現れて、消えていくものなんだろう。そう理解すると、嘔吐も排泄の一つとして受け止められる。苦しくも無い、ただ、悲しみが食べ物と合わさって喉を通り過ぎていくだけだ。一種そこには、重荷を外した解放感も感じられる。
 目を閉じて、甘ったるい香りの中で、痞えた痛みが一瞬でも消え、恍惚とする。
 真っ暗な視界の中で、痛みと一緒に遠のいていた血が戻ってくるのがわかった。
「……坊ちゃま」
 控えめに、扉がノックされる。ああ、そろそろ、気付かれてしまうのかな。おなかの中にはもう食べ物はないのに、ずん、と悲しみが胃の中にたまるのがわかった。何か、入れなくちゃダメかなあ。扉を開けて、笑う。
「どうしたんだい? 何か、あった?」
「いえ、お体の具合がよろしくないようでしたので」
「変わりないよ。昨日の夕食に、毒の危険でもあったのかい?」
「そういうわけでは……」
 最近覚えた軽口に、ニルギリは笑わなかった。肩を叩いて、横をすり抜ける。優秀な執事兼元ベビーシッターは、下手な誤魔化しに黙ってくれた。
 居間に使用していた(と、言っても、この家屋には僕しか使う人間はいないのだけど)部屋を抜けて、寝室に戻る。普段着のまま寝転んだ。白いシーツが灰色の陰を帯びていくつもいつも筋を引く。
 目を瞑ると、さっきの恍惚と、遠い言葉が……まだ一週間と経ってないのに酷く遠い……浮かんで、残って、反響した。
『……あいつ、旅に出るそうだ』
 胃が、重くなった。
 わかっていない、わけじゃなかった。見ない振りを、していた。数えてみれば獅子川くんがここに残っていてくれたのは、驚くほど短い時間だった。半年も無い。旅の方が平常であるのだと、思い出した。忘れていたのがいけなかった。幸せに慣れていたのが、いけなかった。胃というのは贅沢なもので、少しばかり消化に良いものばかりを食べているとあっという間に弱体化してしまうらしい。僕の心も同じで、そんな脆弱な心に胃は何を思ったかダイレクトに同調してくれているようだ。処理しきれないものを、あっという間に体外に出してくれる。
 今度は寝室と繋がったトイレに向かった。ばれないということはないけれど、そう気にも止められないだろうここならゆっくりすることも出来る。さっき食べ物は吐き出しきってしまったので、透明な胃液が零れるだけだった。足りない。食べなくちゃ。でも、食べたいとは思わない。でもこれじゃあ、邪魔な悲しみを追い出すのに足りない。口元を拭った手首は感心するほど細くなっている。過ごした時間を殺ぎ落とすために、身体が削られていくんだ、仕方ない。野球から遠ざかっていて良かったと、僕は何度目か、無理やりにその事実に感謝した。
 トイレから出ると、傍仕えの女性が待っていた。
「お客様がお見えです。お通しいたしますか?」
「誰?」
「シシカワさまと仰っていらっしゃいます」
 瞠った目を伏せて、頷いた。お腹の左に手を当てる。大丈夫、今なら。追い出したばかりだから。
「うん、通してあげて。紅茶は僕が淹れるから、道具だけ置いておいてくれるかな?」
「かしこまりました」
 大丈夫、大丈夫。



 客間に戻ると、獅子川くんは手持ち無沙汰に辺りを見回していた。扉が開いた音に振り返り、僕を見る。
「いらっしゃい、獅子川くん」
 笑みを作る必要はなかった。自然と零れた。
 黒く焼けた肌、オレンジ色に燃え立つ髪、朱色の目、白く残る傷跡、真っ直ぐな背筋、引き締まった手足。纏わる思い出を浮かべる間もなく、パブロフの犬のように幸せな気分になる。
 お茶の道具を乗せて運ばれてきたワゴンに手をかけ、ポットに細く湯を注ぐ。
「少し、久しぶりになるかな。元気にしていたのかい?」
 僕を呆然と見たまま、獅子川くんは答えない。それに気付かない振りで視線を逸らしてポットを揺らし、お茶を馴染ませた。
「おッ前……」
「……旅に、行くんだって?」
 やっぱり、隠し通せない。彼の口から聞きたかったのに。食べ物をすべて悲しみと共に吐き出した身体に、力がないのはありありとわかってしまうのだろう。
「知ッてたのかよッ?」
「うん、鹿目くんがね、教えてくれた」
 獅子川くんの雰囲気が、戸惑って揺れる。
 嫌な思いをさせているのかと思うと、涙が簡単に滲んだ。
「……もう、決めてるんだろう?」
 無言が、わかりやすい答えだった。
 ポットを置いて、一呼吸。笑顔を向ける。
「行ってらっしゃい、……体に気をつけてね」
「ッおッ前!」
「花はいつか散るだろう?」
 ずうっと、考えていた、言葉。悲しみをやり過ごせるように。笑えるように。彼が僕なんかを心配しないでほしい。だから、心から、大丈夫だって言えるように。
 自分を納得させるために、たくさん考えた。
「どんなに綺麗な花でも、いつかは散る。それは、当たり前のことだよね?」
「何を」
「でもさ、人はそれを嫌がる。みすぼらしい姿に耐えられなくなったりする。目を逸らして、苦しんだりする。でもそれは、いくら嫌がったって仕方ないことだよね。永遠の花なんて、おかしいんだから」
 笑った。大丈夫。大丈夫。それだけのことだよ。
「そんな当たり前のことなんだよ。大丈夫」
 胸に手をあてる。大丈夫、動いている。
「いまちょっと苦しいけど、すぐに慣れるから」
 花が咲くように実がなるように、そんな風に当たり前に、旅をせずにはいられないだろうから。
「当然のことだから、仕方ないよ」
 避けられないことなら、せめて君がより幸せであればいいと思う。
「大丈夫、安心して、行ってきて。怪我と病気に気をつけてね」
 だから帰ってきてとも言わないよ。何も気にせず、出かけてしまって。
 嬉しい。ああ、本当に僕は大丈夫だ。今だけのことだ。いつかは乗り越えられるだろう。大丈夫、獅子川くんの重荷にはならない。さあ、笑える。瞼の熱さは、喜び故だ。
「行ってらっしゃい」

「オレが何したッつうんだよ……ッ」

 それは予想もしないことだった。涙に濁った声で怒鳴った獅子川くんは、破れてしまうかと思うほどに、唇を噛み締めていた。
「獅子川く……?」
「旅に出ッんのはそんなひッでえことかよッ? たかだか、何ヶ月会わねえだッけだろッ? 戦いに行くわけでもねえ、決闘するわけでもねえ、二度と帰ッてこねえわけでもねえんだよ! ちょろッと周りを見てくるだッけだッ!」
 何度も何度も頭を振りながら、獅子川くんが叫ぶ。怒鳴る。きつく瞑った眦から、二筋を涙が伝っている。
「だのに、どうして、こんな……ッ」
「ど、どうしたの? 僕、大丈夫だよ? 怒ってなんかいないよ?」
 駆け寄った僕の手首を掴んで、獅子川くんは悲しむ目で睨み上げた。
「これがッ!」
 力が篭る手のひらに、皮のすぐ下の骨が痛い。
「何が大丈夫なんだよッ、お前の言ッてることがわッかんねえよッ! こんなにやせ細りやがッて、飯吐いて何が平気なんだよ、お前はオレをどうしてえんだよッ!」
 ニルギリが喋ったのか。
「何がしてえんだよ……ッ」
「僕はただ、獅子川くんに心配しないでほしくて……」
「しッんぱいッてなんだよッ、てッめえオレをなんだと思ってやがんだ!」
 ぎりり、と手首が泣く。痛い、離してほしい。僕は大丈夫だったのに、怒らないでほしい。君に笑ってほしかった。君に楽しくいてほしかった。僕はいったい何を間違えたんだ?
「どうして泣くんだよ、ちッとの間じゃねえかッ! 泣くんじゃねえよ!」
 
 だって、君はいなくなるじゃないか?

「平気でいろよッ、オレは旅がねえと耐えらんねえんだッ! 泣くなよ、オレのことなんか忘れて、笑ッちまえ!」
「……む、無理だよ、そんなの……」
「なんでだよッ?! たかだかオッレ一人いなくなるだッけじゃねえかッ、それだけでこんななッて、どッうするつもりなんだよッ」
「が、我慢するよ、大丈夫。君の、邪魔にはならないよ。だから、そんなに怒らないで? 君に怒られるのは嫌なんだ。ごめんね、ごめんね。大丈夫だから」
「オレの言うこと聞いてんのかッ?!」
 僕の手を掴んだまま、獅子川くんが腕で涙を拭う。骨の上の皮にはりついた涙は、うすく、照明にきらめいている。
 どうしたらいいの、怒らないで。黙ればいいのか、笑えばいいのか? どうすればいいのかわからないよ。教えてよ、僕は、どうすればいいんだい。君の言うことがわからないよ。
「怒らないで、よ」
「泣くなッ」
 怒鳴る獅子川くんこそが、泣いていた。僕は涙一粒、零してなんかいやしなかった。全て嘔吐で流してしまった。でも、獅子川くんは泣くなと怒鳴った。僕は泣いてなんかいなかった。でも怒鳴られた。僕は泣いてない。こんなに我慢して泣いてないのに、どうして怒るんだ。どうして、そんな酷いことをするんだ。
 獅子川くんは泣いている。悲しそうに、苦しそうに、まるで、心の半分を切り取られてしまったみたいに。
「……ああ」
 合点した僕は、呟いた。緋色の目を見上げた。

「君は、悲しんでいる僕が嫌なのか。たとえ泣いてなくても、隠しても、許してくれないと言うの」

 僕の言葉に驚いて瞠った目から、また涙が零れている。指を伸ばして、触れた。冷たさも暖かさも、醜い痕を覆った手袋に阻まれてわからない。
「それは、僕に、死ねというのと同じなんだよ」
「……」
「そう、言うの」
「……」
「それでも、僕はいいとおもう。でも君はいいの」
「……」
「僕は、死んで、いいのかい」
 何も言わずにただただ、零れる涙に耐えられなくなった。見たく、なくなった。美しいそれは、冬の夕日のように痛く目に差し込んできた。
 滲む瞼を目の前で震える二の腕に当てると、何も見なくて済んだ。
「……ムカつくんだよ、てめえが泣くのは気に入らねえッ! だからッてこんなとこにゃあいられねえッ、広い世界に行かなけりゃ、息が詰まッちまうッ」
 嗚咽に、獅子川くんの声は途切れた。耳元の肩が揺れた。
「けど、てめえが泣くのは気に入らねえんだ……ッ」
「じゃあ、僕は、どうしたらいいんだい?」
 獅子川くんにだって、そんなことはわからないのを、わかっていた。
 僕らはどうしようもなく、我侭なんだ。彼は旅に出なくてはならない。でも僕はついていけない。僕は彼と離れたくない。でも彼はずっとここにはいられない。自分の望みを曲げることが出来ない。なのに相手が悲しむことに、二人ともが耐えられない。相手が自分のことなど忘れてしまえばいいと思う。
 でも、自分は、絶対に忘れられないんだ。
 どこにも行けない道の突き当たりで、僕らは途方に暮れた。行き場はないと、知った。
「どうしたらいいの」
 けれど、それでも、尋ねた。答えが返らないのを、知っていて。もう答えなんか気にしていないのに。
 だってこれが終わりなんだ。
 行く先のない僕らは、もう一緒にいられない。これが残された最後の手段なんだ。訊けなくなったとき、彼は出て行ってしまう。この声が枯れたときを最後に、僕らの未来は二度と交わらない。
「どうしたら、いいの」
 顔を上げて足掻く僕を、ぽろぽろ泣きながら獅子川くんが見下ろす。
 僕は彼のために全てを捨てられない。彼は僕のために世界を捨てられない。僕が泣いて頼めば、彼は残ってくれるだろう。だけどそれじゃあ、彼が苦しい。彼が望めば、僕は彼についていく。けれどそれじゃ、僕はいつか耐えられなくなるだろう。
 僕らが僕らである限り、避けられないお別れがにやにやとすぐ傍で笑っている。
 そんなことが、わかった。だから腕のシャツを掴んで、呪文を唱える。もうすこしだけ、傍にいて。
「どうすれば、いいの」
「……なあ」



 僕らが、僕らで、ある限り、僕らの先に道はない。
 ――あれ? じゃあ、もしかして。

「二人で、逃げ出しちまおうぜ」




 僕らが僕らでなくなれば?