今回の旅は、ずいぶんと酷いものになった。これまでになく、執拗な牛尾の制止を振り切ったのが悪かったのか。
紛争が絶えない地域とはいえ、世話になった家の少女の首がごとりと転げたのが堪えた。牛尾の言うように、一人の人間に出来ることはとてつもなく少ないのかもしれない。自分に出来ることなど、たかが知れているのだろう。
花のように笑む、幼い女一人すら救えなかった。
埼玉に帰るのも億劫だった。乗る電車、その車輪すら、人の首を落とす力があるのだ。いや、落としたことがある電車にのるかもしれない。それを考えると、吐き気がした。なんと、人の死とは、容易いものだろう。ぼんやりと重なる、少女の笑みと、行きがけの牛尾。あの白い首も、あんなふうに、おちるのだろうか。
やっと繋がるようになった携帯に、何通も何通もメールが舞いこんだ。能天気な音をたてて、封筒のアイコンが何十にもなっていく。国籍が今帰ったばかりの国のアドレスが、一通あった。
死んだ、少女からだった。
あのろくに身動きできない場所から、こっそりパソコンを使ってメールを送ってきていたのだろうか。アドレスを教えた紙きれは、今頃少女の家族と共に燃え落ちただろう。アルファベットだった。たった、一言だけ。
『ocaelinasai』
一言だけ、教えられた日本語だった。
どんな思いで少女はこれを打ったのだろう。どんな気持ちだったのだろう。自分がどうなっていると思ったのだろう。獅子川にどうしてほしいと、送ったのだろう。帰ってきてほしいと願っていたのか、帰れてよかったと祝福しているのか。自分の首が、まるで蜜柑をもぐように簡単に、落ちることを考えてみたことがあっただろうか。来客が取り出した刃に驚いた顔のまま、地べたで潰れる自分の頭を想像しただろうか。桜色の唇が、ひからび、朽ちる様を想像したことがあっただろうか。
涙も出てこなかった。一緒に、死んでしまいたい。あの鈴が転がるような声を、天国で聞いていればよかった。どうして、あのとき足は動かなかった。少女を庇わなかった。
こんな臆病者に、あの集落の人々に庇われ守られ、生きる価値などあったのか。
涙も出なかった。
人々が、不審そうに見下ろす中で、花壇に腰掛け、照明の消えたディスプレイを眺めて、じっとしていた。このまま、音もなく、干からびて砂になろうと思った。
願わくば、あの山脈で踏みしめた道の、一部に。
「獅子川くん」
砂になりかけた獅子川を覗き込み、牛尾が笑った。
「空港で見かけた人がいるって聞いたものだから、我慢できなくて迎えにきちゃった。すれ違いにならなくて良かった。もしかして、誰か連絡してくれたの? 待っててくれた?」
楽しげに、言葉は紡がれる。異国の発音に慣れた耳は、なかなか意味を捉えなかった。
「おかえりなさい」
生き物の体温が、獅子川を包む。鼻に当たる服の肩を、握り締めた。大きく手を広げて、ぬくもりを確かめたかったのだけど、腕は動かなかった。
ごとりごとり、死んだ少女の首が、頭の中を這いずり回っていた。
もしこの手を、背中に回せば生きている牛尾は、笑ってくれるだろうか。