高校男子が頬に軽く怪我を負っていたところで、本人も頓着しなければ誰も心配なぞしてくれない。せいぜい仮病に使うのがオチだ。試合中の名誉の負傷ならともかく、ギャグの過程で作ったのだから理由にしても呆れられる。
 トイレに入った校舎はがらんと冷たく、人気がない。貴重な時間だと思うけれど、人がいないだけにすることもない。たとえストリップをやらかそうとも、ツッコミも悲鳴も何も入らなければ服を着ているのと同じだ、つまらない。
 職員トイレを出たリノウムの廊下は磨かれていて、ぼんやりと映っている練習着の白い影が歩くたびに揺れていた。人気のない廊下はひどく寒々しい。
 トイレの隣の職員室と来賓玄関の間を抜けると、下駄箱が並んでいる。黄ばんだ白が目が眩むほどにたくさん。向かいには小さな階段が中庭に続いている。
 三学年分並ぶ靴箱には大抵どれにも上履きが並んでいる。細胞の中に白く光る細胞核のようだ。かく言う猿野も、結局1年間持って帰らず、今こうして履いている。踵が潰れていて、歩くたびに足を離れてずるぺたと、静かな中に五月蝿く響いていた。きちんと履こうにも、もうたぶん入らないだろう。
 1年B組の靴箱は、A組の次に遠い。この分遅刻カウントを甘めに見てほしいといつも思う。または廊下でスケボーを使わせてくれないだろうか。
 やっとついた自分のクラスの下駄箱の脇に、置き去りのスニーカー一足。
 土間というのか、靴を置ける、暗い色をしたコンクリートの上に並べられた青いプラスチックの簀の子に足を落とす。上履きは使われていない下駄箱の最下段に蹴りこんだ。
 スニーカーに足を突っ込む。ジャリと鳴った。まずった。入り込んだ砂を掻き出してから履けばよかった。けれどもう面倒くさい。グラウンドに戻ってから、掻き出してきちんと履くことにしよう。
 やっぱり踵を踏んずけたまま目を上げた先に、ガラスの扉越しに花。
 目を奪われて足を止めた。似合わない感傷的な気分だ。よりによって、今日という日に。
 散るに至らない、八分咲きの桜が昇降口の傍に佇んでいる。あと6日もすれば新一年生たちがやってきて、あの桜の下に張り出されたクラス表を眺めるだろう。
 あの新しい匂いが、いつも少しだけ苦手だ。
 新しいものが加わるということが、そのために失ったものを思い出させる。部活動に縁がなければ先輩とも付き合いはないけれど、それでも廊下ですれ違う見知った顔がいなくなっているということは感傷とも言えない小さな疼きを胸に押し付けた。失うことは嫌だ。ちいさな頃、今の友達も何もいらないから、父と兄が欲しかった……おさない、ばかな頃の話だ。
 グラウンドに戻ればこんな気分は消えてしまうだろう。新入生への期待や不安やそして歓迎の仕方を考えていればあっという間にその日はやってくる。はやく戻ろう。コンクリートの上に散っていた砂粒が靴底に擦られ鳴いていた。
 締め切りの扉を開けてしまう。窓には粗忽ものがつけたのだろう、磨かれた中に手の跡がべたりとついていた。もしかしたら記念なのかもしれない。出て行った誰かの。
 それに目をとられて、微かに首を後ろに捻りながらゆっくりと閉じる扉を眺めていた。
 靴音に振り返る。子津が猿野を見ながら、こちらへ歩んできていた。
「便所?」
「そうっす」
 傍まで来た子津が立ち止まる。風にはらはらと散った桜を見返った。手を振るように、少ない花びらが散っていく。
「今なら女子便所誰もいなかったぜー」
「入るわけないじゃないっすか!」
 それを見ながら肩を組み、耳を寄せて笑うと怒声ともつかぬツッコミが入る。にやにやと笑った。からかわれたことを知っていて、軽く子津が憤慨してみせる。キョーミあんだろ? と振るとため息が返って来た。
 軽く肩を叩いて、グラウンドに戻ろうとする。
「あ、」
 子津に呼び止められて、いきかけた足を出したまま目を向ける。なんだろう? 何かついているのかと、身体を見下ろす。
 子津の手が、頬に伸びてきた。
「また怪我をして……気をつけてくださいっす。痛いっすか?」
 眉尻を下げて、眉間に皺を寄せた子津の顔が近い。赤い擦り跡を、指がなぞる。
「あ? ああ、こんなもん大したことじゃねえって」
「怪我は怪我っすよ。また消毒もしてないっすよね、これ」
「それほどの怪我じゃねえし」
「だから……もう、一緒に保健室行こうっす。どうせ他のとこにも怪我があるんでしょう」
 鋭い。たしかに、膝がさっきから練習着の裏地にちくちくと痛んだ。
「いいって」
「駄目っす」
「駄目じゃねえ」
「こんなの日常茶飯事だし」
「駄目」
 子津が、踵を返そうとする猿野の手首を掴んだ。呆気にとられて、猿野から言葉が出ない。子津が自分相手に意見を通そうとするところなど、見たことがない。しかも力ずくだ、これは。逆らったら殴り合いの喧嘩になるかもしれない。
 本末転倒の空想に耽る猿野を、子津がじいっと見つめている。
「君に所有欲があって」
 いきなりの言葉を追いきれなかった。
「君が怪我しているの、許せないんすよ。僕の見ているところでも嫌だし、見てないところなんかもっと嫌なんす。誰かに怪我させられようものなら、その人に危害を加えたくなるぐらい嫌なんすよ」
 子津の目は、白目が少なくてぱっと見真っ黒だ。いつも細められているはずのそれが、ただただ開かれて猿野を写している。写っている自分に狼狽の色を見て、さらに驚いた。この子津を、自分は怖がっている。
 子津が怖い。
「ね……」
 流れをどうにかしたくて、引き攣った喉から出した声は、掴まれた手首が冷たいガラスに縫い付けられて途切れた。
 扉に押し付けられて鼻先が互いに触れるほどに顔が近い。黒目に、自分が映っている。どうして、笑わないんだ。
「ほんとはね? 閉じ込めちゃいたいんすよ。僕の家、古いからまだ座敷牢があって。板張りの床に、檜の格子。もともと、家から出た手に負えない女性なんかを閉じ込めておくところだから、住み心地はたぶん悪くないんすよね。……あそこに、君を入れたら、と思うと」
 にたり。子津の口端が引きあがる。
 ガラスを人肌に暖めていた手が子津の方へ引かれた。子津が思うようにしか動けない。ここから逃れることは出来ない。
 声を上げたい。虎鉄も猪里も、犬飼も辰羅川も兎丸も司馬も誰も、みんな少しはなれたグラウンドにいる。助けてほしい。子津を、いつもの子津に戻して欲しい。自分が悪いというなら謝るから、どうか子津を。
「ねづ……」
 もうやめてくれ、と震えた声で請うと子津がやっと堪えきれないと言わんばかりに微笑んだ。
(そういや、今日、4月1日……!)
 さっきまでそれを散々ネタにしてみんなをからかっていたというのに、ころっと忘れていた。子津1人でこんなことを考えるとは思えないから、おそらく野球部全体のドッキリなのだろう。茂みにはみなが看板を持って隠れているに違いない。
 息をついた猿野に微笑んだまま、子津が手に込める力を強くした。
「そうやって、僕だけ呼んでいてくださいっす」