| グラウンドの手前側で石を拾っていた兎丸が、足音に振り返った。 「あーっ、兄ちゃんやっと帰って来たの? 子津くんはあ?」 バケツに小石を投げ入れながらそう咎めるのに「べーんじょ! 個室だったから触れてやるな」と誤魔化して猿野は体育倉庫室の外壁に立てかけてある自分の分のトンボを手に取る。 残るトンボは1つ。子津の分だ。 軽くそれに手を触れて、自分の持ち場に向かう。 かすかに聞こえた獅子川の怒声が耳に張り付いていた。ただ子津の傍にいたかっただけだ。あんな現場を、盗み見するつもりはなかった。 何か、あれは大事な話だったのだろう、きっと、他人が聞いてはいけない。ほとんど聞こえなかったのだけれど、それはわかった。だって、獅子川のあんな怒鳴り声など知らない。あんな顔で困る牛尾を知らない。振り返った子津の、一瞬の、あんな悲しそうな笑顔を見たことがない。 自分が盗み聞きをしていたと知ったら、牛尾は、獅子川は……子津は自分を軽蔑するだろうか。 心臓が痛んで、猿野は情けない顔をする。3人へ対する不安のほかに、子津に対するこの気持ちは恋心かとまだ結論がつけられないでいる。だって、これが恋心だとしたら、自分は鳥居を一体? 薬の効果だから、本来とは違うのだろうか。けれど、薬の効果だから『本当の恋』を正しく踏襲しているということはないだろうか。そう思うと、この気持ちは証拠になってしまう。鳥居への自分の思いが恋と思い込んでいたただの憧れであると。 もしかして、そうなんだろうか? 答えのでない、容易に他者へ尋ねることの出来ない問いは猿野の中でずるずると渦巻く。考えることは苦手だ。空回るばかりでなんにもならない。 地面に引きずられるトンボはやる気のなさそうに、緩く斜めを描いていた。 「猿野くん」 背後からの子津の声にびくりと身体を竦ませる。猿野の心中に気付かず、子津は猿野が平らに撫でた後を、斜めの線を修正するように上から塗りなおした。 「もう、斜めじゃないっすか。これじゃムラが出来ちゃうっすよ」 ぶつぶつ言いながらトンボを動かす。猿野の喉から無理に引きずり出された言葉は、始まりだけ掠れた。 「や……っぱコンクリで固めた方がいいんじゃねえの?」 「もうそんなことしたらグラウンドじゃないっすよ! そのコンクリート練ってる車、いったいどっから持ってきたんすかー?!」 そうやってあんまりふざけてばかりいると、部活始まる前に授業になっちゃうっすよと子津が顔を顰めてみせるので、大人しくトンボを握る。 素直な反応に、戸惑ったように視線を動かした子津が一瞬おいて微笑んだ。 「そういえば、今日、自動販売機に新商品入るんすってね。猿野くん、飲みたいとか言ってなかったっすか? 僕のクラスの方が自販に近いっすから、買っといてあげるっすよ」 「……ふーん?」 「売り切れになっちゃうかもしれないし」 「……ん、わかった。頼むわ」 きっと、渡されるそれは蓋が開いている。「一口もらっちゃったっす」と、そんなことしたこともないくせに、子津は笑ってそう言い放つだろう。 さみしそうな、何かを教えてくれそうで、何も教えてくれない笑みがそう教えてくれた。 きっと、この胸の痞えを取られるのだろう。 ……自分でないような、この自分は終わるのだろう。 黙ったまま子津に背を向けて、いつまにか胸を抑えていた手を外して、子津に先立ち、トンボをずるずると引きずり始めた。 「新商品ってあれだろ? アップルティーパイナップル味ドリアンの香りってやつ」 「りんごなんすかパイナップルなんすか?! なんにしても最後で台無しっすよ!」 「バッカ、お前、ドリアンつってもドリームジャンボ宝くじビーアンビシャスの略よ」 「そんな言葉だったっすか?!」 子津がツッコむのに、笑って返す。 苦しくない、悩むこともない、平和な日常に帰るための階段が1歩動いた音がした。 帰って、そこにある居場所に自分が戻れるのか、猿野は知らない。しらないことを、求められていると思う。 ただ、帰ったところがどんなところであっても、子津が隣で笑っていればいいとそれだけを、その気持ちが嘘かほんとかも知らないまま、願った。 |