夜風は体を冷やすから
帰ってきた玄関で、携帯の電源を切りっぱなしだったことに気が付いた。
スーツのポケットから取り出して、ボタンを長押しする。昼の会議からがずっとこのままだったんだ。
何件メールが来てるか怖い。どうせ、迷惑メールが多いんだろうけど。
社会人になったらアドレスを変えるのも色々面倒くさいことになって、どこから漏れるのか日に日に出会い系や、Hな写真のサイトへのお誘いが増える。
サーバーへの問い合わせを知らせる表示は長くて待っていられず、折りたたんで靴箱の上に置き、革靴に手をかけた。
かぽん、と音のしそうな勢いで外れる。
大分楽になった。それを投げ捨て次に取り掛かった左足がまだ脱ぎきらない間に、右手ではネクタイを解いてぽいとすこし遠いソファに向けて投げる。
あとで面倒くさいのはわかってるけど、どうしても今片付ける気になれなかった。居間にしている正面の部屋へ玄関から入る途中で靴下を脱ぎ上着を脱ぎYシャツを脱ぎズボンも脱ぐ。
どうせ今は誰もいないし、どんな格好になったって自由だ。朝急いで着替えた部屋着が、抜け殻みたいにくちゃくちゃになって隅っこに収まっていた。
司馬くんもまだ一度も帰ってきてないらしい。
スエットをはいて、丸首のトレーナーから顔を出したとき通信の終了を知らせて携帯電話が靴箱の白木を震わせた。
手にとって開く。
受信件数23件だって。うえ。
やっぱり迷惑メールが多い。あとは、気が向いたときにメールする中学の友達からのどうでもいいこと。
大体が思ったとおりのリストに辟易しながらカーソルを下に下げていると、珍しい名前があった。
高校の辰羅川くんだ。退屈な予想が外れたのが嬉しくて、一番に見る。
角ばった文字を視線でなぞりながら、目を一杯に開いてしまったのが自分でわかった。
「うっ……わあ!」
すごいすごいすごい!
ぴょんぴょん僕はリビングのソファとテーブルの周りを飛び回った。
そりゃもう珍しいことじゃないかもしれないけど、こんなに身近な人がそうなるのは初めてで、いまだ慣れない仕事の疲れも吹っ飛んでしまう。
そんなタイミングを見計らったみたいにドアが開いた。シャツ姿にジーンズの、まるで普段着みたいな服で仕事に行ってた司馬くんが顔を出す。
「ただいま」
「ね、ね、メール来た?! 見た?!」
「兎丸、もしかして今見たの?」
「だって切りっぱなしで気付かなかったんだもん! すごいねすごいね、何着て行こうか!」
「どうなんだろう……実家に相談してみようよ」
「あ、うちお兄ちゃんのお下がりとかあるかも」
礼服なんかぜんぜん持ってないもん。普通にスーツとかでいいのかな。
「ていうかさ、清熊もみじってもみじちゃんだよね? マネージャーだったさ!」
「うん、そうだねたぶん。2人が仲良かったなんて知らなかった」
「僕もぜんぜん! 辰羅川くんも隅におけなかったんだねえ」
ちょっと、司馬くんが黙った。僕も黙る。2人、おんなじこと考えてる、たぶん。
「とうとう、あの2人と、お別れしたんだね」
「うん……」
辰羅川くんは犬飼くんと御柳くんととても仲が良くて、大人になってからもずうっと仲が良くて、兄ちゃんなんかあいつら結婚しないで爺になるまで一緒にいるんじゃねえの、とまで言ってた。
そこまでは思わなかったけど、あんなにぴったりしてた3人が別々にいるのはとても、想像もしていなかった。
辰羅川くんが大学3年生で1人暮らしを始めた家に、プロになってどっちもお金をたくさん持ってるくせに犬飼くんと御柳くんが転がり込んだ。すったもんだで結局一緒に住むようになってからは別々に暮らすことすらますます想像できなくなっていて、そんな中で辰羅川くんが結婚したってことは、うれしいけれどとてもびっくりすることだった。
あんなにぴったりしてたのに、お別れを選んだんだ、辰羅川くんは。
だからって、別に、御柳くんと犬飼くんが傷ついてるってことはないだろうけど。
だって、とっても仲が良かったもの。本当に御柳くんと犬飼くんが嫌なこと、辰羅川くんが出来るはずない。きっと本人以外でこの結婚を誰より喜んでるのは御柳くんと犬飼くんだ。結婚したあともずっと仲良しだろう。
でも、辰羅川くんが2人からちょっと離れたことには、変わりない。
それが僕らを驚かせて、ほんのすこし、黙らせた。
「夕ご飯食べた?」
さりげなくそこを離れながら、台所へ向かう途中司馬くんがそう尋ねた。
「ううん、帰ってきたばっか」
「なんか食べたいのある?」
「マーボー食べたいかなあ。買ってなかったっけ」
「買ったけど食べちゃった気がする」
「え、全部? 僕2箱買ったよ」
「じゃああるのかな」
乾物を入れている、シンクの隣の棚に司馬くんがしゃがんだ。
あるのか気になって、僕はその後姿を見ている。
「どこに入れたの?」
「その辺に入ってない?」
「ないなあ……兎丸探してよ」
司馬くんの代わりに棚の中を覗き込む。
自炊が上手い司馬くんがいるだけあって、うちの戸棚はケチャップとかシーチキンの缶詰とかの買い置きが狭い中にごちゃごちゃ入ってて、たしかにマーボーの素の在り処がちょっとやそっとではわかりそうになかった。
冷蔵庫を開ける音がする。司馬くんが材料を確かめてるんだろう。ここまできてお豆腐がなかったら悲しいなあ。
あれ、やばい。それどころか素が結局ないかも。
色々入ってるけど広くはないからすぐ見つかると思ったのに。もしかして、ほんとに食べちゃったの忘れてた?
ちょっと焦って、本腰を入れて中を覗き込む。ソースをどかし、その陰にあったカレー粉を本来入ってるはずの仕切りに入れなおし、レトルトの親子丼を狭いところに詰め込んでしまう。
そういう整理作業を繰り返していると、なんだかぼうっとしてきた。
ぼうっとしながら、考え事をする。ちょっと前まで1人暮らししてた癖で、つい独り言を言っちゃう。小さな声で、ぼそりと、誰に伝えるつもりもなくて。
「僕らも、きっと、ずっと2人じゃいらんないね」
ぼうっとしすぎてて、鼓膜を震わせたそれが誰が言ったのか、一瞬本気でわからなかった。
司馬くんがこっちを見ている。口を抑えたのは咄嗟だった。今の、僕が言ったの?
「兎丸?」
続けられそうになった言葉を遮りたくて、ぴょんと飛び上がる。玄関に向かって走る。スニーカーに爪先をかけながら、叫んだ声が震えた。
「あ、な、なかったみたい! 僕買ってくる! すぐ帰ってくるから司馬くん留守番してて!」
返事を聞かないように、目を瞑って玄関を開ける。マンションの廊下の壁の向こうには雨が何時の間にか降り出していて、すこし寒い。
思わず立ち止まった体に身震いがした。
走り出すのに踵を潰したスニーカーのせいで早く走れなくて、ずるずる鳴る足音がすごく嫌で、逃げたくてでも逃げられるわけなかった。逆にスニーカーの方が逃げそうになる。
一度転びかけながらも、たどり着いたエレベーターのボタンを押すと、階数表示ランプはすぐに1階から上ってきはじめた。
でも1階1階上ってくる表示すら、今の僕にはもどかしくて仕方がない。はやく、2人で選んだマンションの一室から、司馬くんから、離れたかった。
正方形を斜めにしたお洒落な灯りしかない廊下と違って、エレベーターの中は明るいオレンジ色の光に溢れていた。飛び込んで扉を閉める。ボタンの羅列と隣り合った壁に背を預けて息苦しさに、くしゃりと前髪を掴んだ。
なんであんなこと言っちゃったんだろう、ありえない、信じらんない。
小さな声だったから、司馬くんに聞こえてないことを切に祈った。誰にも頼れない願い事は、まさに祈りとしかいえなかった。
ほんとうに、どうして、あんなこと、あんなバカなこと。言いたくないから2人で黙ったのに。伝えたくないから黙ったのに。気付きたくないから黙ったのに。
本当に、バカだ。僕は僕が嫌いになって、泣き出してしまいたくなった。
(あんなに仲の良かった辰羅川くんたちがずっと一緒にいられなかったんだから、いつか僕らだって)
それはいまさら自覚した当然のことで、彼らのことがなくても昔から何度も思ってたことで、こんなことで凹む僕は二十歳もとっくに過ぎたのに本当に子供みたいで……ああもう、ほんと信じらんない。
1のパネルにランプが点く。徒競走の始まりみたいに、僕は正面の自動ドアの向こうに駆け出した。
自動ドアの上から伸びる大きな庇の下を通り過ぎた途端、大粒の雨が次々と、痛いぐらいの強さで僕の体を打つ。
足りない、足りない、こんな生ぬるさじゃ足りない。もっと酷いところに行きたい。僕なんか、もっと苦しめばいい。
ここでないどこかに逃げ出したいのに、スニーカーが不思議なほどに重くなって、足が動かない。
水にまとめられた前髪の間から、広げた掌の上で雨が模様を作るのをぼうっと眺めていた。
お願いだから、なんでもするから、あんな言葉が司馬くんに聞こえてないといい、どうか、どうか。
それだけを繰り返し考えていた。
お財布を持ってないこととか、思い出しながら、それだけ繰り返し考えていた。それ以外を考えるのが怖かった。
背中にしていた、自動ドアが開いた。
振り返る。いたのは、よりによって司馬くんだった。
畳んだままの傘と何か布を片手に慌てて駆け出してくる司馬くんにも、雨は容赦なく降り注ぐ。僕は鼻の奥がいっそう痛くなって、これ以上は耐え切れなくて、司馬くんを自分ごと庇の中に引き戻した。
前に立ったままの僕らに、自動ドアも開きっぱなしになる。
司馬くんが持っていたのはなぜか毛布だった。
タオルじゃないのに、それで一生懸命、濡れた僕のことを拭いてくれる。ごわごわして痛かったけど、鳥肌のたった腕にとても暖かかった。
「司馬くん……なんで?」
一縷の望みを込めて、僕は聞いた。
追いつきかけて、結局背の届かなかった顔を、呆然と見上げながら。
笑いも、泣きも、苦しみもせず、顔をゆがめず、ごしごしと僕の髪を拭く手を止めずに司馬くんはぼそりと言った。
「傘忘れたでしょ? 廊下から下を覗いたら、濡れてるのが見えたから」
それだけ? 聞こえてなかったの?!
僕の心が歓喜にわく。笑みを象ろうと思わず上がりかけた頬は、すぐ引き攣った。
暖かい、雨、が。
神様の涙じゃなくて、そんな遠くて酷いものじゃなくて、すぐ傍の、司馬くんの、
「バカだなあ、兎丸。どうして雨が降ってるのに傘忘れるのさ」
涙が、司馬くんが僕の顔を、拭いてくれる端から、
「バカだなあ、兎丸」
僕の上に、落ちて、また、拭かれる。
無理やりに笑ってくれる司馬くんの口はしに、手を伸ばした。
どうしようと思ったのか自分でもわからなくなって、そのまま首に回した。
会ったときより、ずいぶん近くになった顔。かがんでもらえなくても、キスが出来るようになったのはいつからだっけ。
司馬くんは平気な顔をしているのに、してくれているのに、きっと僕の顔は歪んだ。玩具を壊された子供みたいにみっともなく。見られたくなくて、もう片手も伸ばして肩を抱き寄せた。
司馬くんの肩越しの視界では明るいエントランスホールが開きっぱなしの自動ドアの向こうにあって、こんな暗闇で泣いている僕らにそこはあまりにも遠すぎだ。
やわらかな、司馬くんが持って来てくれた毛布は僕を包んでくれるのに、僕には自分しかなくて、司馬くんが寒くないように目一杯に腕を伸ばして抱きしめることしか出来ない。それすら、僕自身が冷たいんだからなんの用途も為していない。
流れる涙が一瞬だけ熱くても、吹き込んでくる冷たい夜風にすぐひえる。
いくら力をこめて抱きしめても、蒸発してしまいそうなぐらい涙を流しても、僕の司馬くんのためになににもなれなかった。
「風が吹いて、寒いね」
目を瞑ったまま僕は首を振った。
司馬くんの優しさに甘えて、涙も寂しさも寒さもすべて風と雨のせいに出来たら、遠くない明日に別れは来る。
未来が欲しい。一緒にいられる確実な未来がほしい。
この暖かで優しい腕の中を逃げ出して、雨と風に晒された醜い死でも代償に差し出せば、神様は僕にそれをくれるだろうか。
もう雨にほとんどを流されてしまって、その願いごとしか残っていないから、それが僕に差し出せる全てだ。もしそれ以上を望むを許されるなら、そのあと地獄に落としてほしい。
吹き込んでくる夜風があまりにも冷たくて強くて、きっと、司馬くんが包んでくれる毛布が無ければ僕なんか簡単に吹き飛ばされてしまうに違いないと思う。