白の中に探し続ける

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  黒糸  

 しばしそこへ立ち尽くし、一向に気力の出ない体では佇んでいるのかそれとも動いているのか。たとえば世界がめまぐるしくぐるぐる世界が動いていても、これではわからない。
 一つ息をついて、また子津は足を踏み出した。
 戻っているのか、先へ進んでいるのかそれとも曲がっているのかやはり一向に検討はつかない。
 わからなければ同じなんだ、と言い聞かせて子津は歩を進め続けた。
 けれど、どれだけ歩いてもいくら目を凝らしても一向に影のひとつも見えない。もう、立ち止まってしまおうか。そう思った。
 と、子津はぎょっとして足を止めた。
 すぐ傍の、黒糸の髪で揺れた。
 髪だけではない、そこには人が佇んでいる。 
 どうして今まで気付かなかったのだろう?
 気づいてさえなお、彼の存在は希薄で、目を逸らしでもしたら消えてしまわれそうだった。その黒と纏う白のコントラストは、痛いほどだというのに。
 その手は可愛らしいともいえる小さな羽を抱えている。
 不思議だ、羽を手に持つなんて、聞いたことがない。
「……私に、お気づきになられたのですか?」
 屈託のない微笑で尋ねられ、手の中の羽にばかり目が行っていた子津は思わず会釈した。
「ご、ごめんなさいっす。ぼーっとしてたみたいで……」
「いいんです、お気になさらないでください」
 ふんわりと細められた目はこちらを見ていなかった。話している相手は子津でも、その意識ははるか彼方へ向けられているようだった。
 これか。思いいたった。
 薄い気配のわけは、その大部分を遠く在る意識が持っていってしまっているからだ。
「この羽が気になりますか?」
 あまりにもその手の中の羽を見つめていたことがバレたのだろう。年配の教師が尋ねるような、穏やかな問いに頭をかきながら、子津は頷いた。
「これは大切な方に渡すものなのです。なので、こうして抱えております」
 まるで幼子のように、羽は優しく撫でられる。
 言われなくても渡す相手は大切なのだろうということがうかがい知れた。子津は綺麗な羽っすねといった。
 嬉しいです。他人の羽であるはずなのに、綻ばせた微笑で礼を言われる。
 ここにきて、子津はあることに思い至った。
「ここはどこなんすかね?」
 決して、今まで口にすることの無かった問いが口をついて出た。
 目の前の人物が持ち合わせる、雰囲気のためかもしれない。
「さあ、どこなのでしょうね。空でないことだけは確かですが」
 空。
 皆がそこを目指している。だからここは空ではないのだろう。
 誰しもが空を求め、羽を求める。自分のみすぼらしい翼を思い出し、子津の胸がツキンと痛んだ。
「どうして、皆さんあんなに必死になるのでしょう。翼など、無くても空は飛べますのに」
 まるで、子津の痛みの元を知っているのかのように彼は上を見上げた。
 子津は驚いて顔を上げた。
「無くても?」
「ええ」
「だって、どうやったら」
 子津にとって、それは曇り空に差した一筋の陽のように思えた。
 飛べるならばどんな努力でも惜しまないつもりだった。
「至極簡単なことですよ」

 ふわり、と目の前の身体が浮いた。
「諦めれば良いのです」
 悪戯めいた目が、子津を見る。
「あまり高くは飛べないのですけれど」
 わずか見上げる位置に、腕に抱えられた羽が上った。
 
 その細かなところを始めてみて息を呑んでしまい、苦笑される。
 一枚羽のように見えたそれは、二枚羽だった。二枚の羽が、何かによってつなぎあわされている。
 大部分は白いのだが、根元と思われる部分だけ赤に染められている。誰かの生きた背から引き抜かれたことを、示していた。
「まさか…」
 細い背の向こうに、翼は見えない。
 子津のように小さいのでもなければ背からはみだしていてもいいはずなのに。ぽたぽたと赤が白に混じるのにも、ようやく気づいた。
 背中から。

「これは大切な人のものなのです」
 子津の想像を肯定するような笑みだった。愛しげに、それを抱く。
「なんで」
 そんなことをしてしまったのか、と尋ねる言葉は声にならなかった。
「ずっと、私は翼を捜し求めておりました。あの方に差し上げるために、あの方を高く、長く飛ばせてさしあげるために。けれど、羽はみな人の背にあるばかりで」
 伏せた目から、涙がこぼれるかと思った。
 それは杞憂で白に混じるのは先ほどから赤ばかりだ。
「馬鹿ですね。こんなに近くにあったというのに」

「どうして」

 再度の問いは悲鳴に近かった。皆、飛ぶためにここにいるはずなのに。どうして、そんなことを。
 飛びたくないだなんて気持ち、誰の胸にもあるはずはない。

「飛ぶだけなら、いくらでも方法はあるのですよ。何もこの翼でなくとも」
 駄々をこねる子供をなだめるかのような瞳が悔しかった。
 いつかお前もここに来るのだと、同じ気持ちを味わうときがくるのだと、悪意でなく言われているようだった。
 それは飛ぶこととは違うのに、同じだと、自分に言い聞かせる日がくるのだと。
「確かに、もうこの翼では飛べませんが」
 ふわふわと羽の先が大気に揺れる。
「それで、いいんすか」
 声が白の中へ逃げ出す。
 まるで、子津の悲しみを外へ追いやるかのように。
「もうその人と一緒に飛べないんすよッ……?」
「あの方にまだ私は必要ですから」
 細められた目の向こうが光を帯びる。
 先ほどの金糸の髪とはまた違う、春の陽のような光だ。何者をも、強く照らすことはないがただ包み込む。罪人も、咎人も。
「きっと今は私も連れてくださることでしょう」
「じゃあ貴方自身の望みは?! もし、必要がなくなったとしたら貴方はどこへ行くんすか……ッ?」
「夢はいつか醒めるものなのですよ」
 落ちていってしまうような心地がした。
 確かに翼を動かすことなく浮いてみせた姿を確かに自分は見たのに。
 どこまでも、どこまでも、例え自分が落ちていったとしても決してたどり着けないようなところまで、細い体躯が落ちていってしまうような気がした。まるで、それが唯一の望みとでも言いたげに。

「そん、な」
 微笑んだ顔を、どこかで見たことがあると思った。
「もう、お行きなさい」
 その瞬間、全ては掻き消えてしまった。
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