獅子川は、夢の中呻いた。……なつかしい。
 振り返り仰ぎ見る校舎を染め変えるように、桜の花びらは狂い散っている。世界に悪意を持っているのかのようだ。血をかぎりなくミルクで薄めた色を、全てに埋め尽くそうとしている。
 これを掻き分けなければならなかった。これほどまでに沸き返る桜の悪意に報いて、探さなければならないものがあった。
 学校だ、桜はそこらに植えられている。こんなにも数が多い。勝てるのか。
 けれど、探さねばならない。
 大粒の、桃色の霧の中でがむしゃらにもがいていた手を、ふと止めた。
 声が。さがしものの、声がする。あちらだ、そうだ。思いついた途端、凶悪な花びらは意識の外へとんだ。
 グラウンドにきっと、いる。
 桜はないのにグラウンドの景色は桃色に霞んでいる。その中にぼんやりと影が見えた。ふたつ。
 探していたのに、恐ろしくなった。この先を知っている。知って、
 (――ああ)
 何もかも、予想通りだ。当たり前だ、夢の中なのだから。暗くなってきた。日が沈んだのだろう。
 もう、夜になるというのに、あの2人はあそこで。
 牛尾と誰かは、ベンチに座って笑いあっている。
 そうだ、あれだ、あれが!
 あの笑いあっている相手が。ずっと牛尾が見ていた誰かなんだ。怒鳴っても打ってもこちらを見なかった目がずっと見つめていたのはあれだ。顔も見えない。姿もわからない。けれど夢に確信する。あれが、そうなのだ。牛尾が見ていた、何よりも執着している、……。
 切なかった。なつかしいのは、この切なさだ。
 手に入らなくて、方法も知らず、それでも欲して憤っていた。けれど、どんなに泣いたって喚いたって、決してあれは自分に向かない。
 そう、切ないほどに、知っている。
 逃げ出したい足は動かない。見たくもないものばかり見ている。
 獅子川は怯えていた。無様に、みっともなく。
 なのに、牛尾が、こちらに気付いて立ち上がる。
 やめてくれ、うめく声は言葉にならない。通じてない。言えなかった、いつだって、やめてくれと、もう近づくなと言えなかった。
 当たり前だ、ほんとうは何だっていいと思っていた。うわべでは否定していても牛尾がこちらを見るなら、なんだっていいと心の底では思っていた。
 たとえ、それが哀れみでも。
 だから言えなかった。もう、近づいてくるなと。話しかけるなと。関わるなと。
 牛尾が歩み寄ってくる。やめてくれ、やめてくれ! もうまっぴらだ、みっともない自分を見たくない!
 地べたに尻をつく自分に、牛尾がしゃがみこむ。顔にかかる髪をはらう指先。そういう仕草を、自分はずっと、見ていた。
『僕を、待っててくれたのかい? そうなんだろう?』
 おまえは、ほんとうは、ぜんぶ、わかっているんだろう?
 情けないオレの全てを、わかって、その上で。
 どうして、そういうことをするんだ。オレのことなんて、なんとも思っていないくせに。
『――ああ、それはね』
 翠が細まり、くちびるが微笑む。
『おもしろい、から』


「……っ」
 感じた絶望から逃れようと、思わず目を覚ました獅子川は混乱した。何に絶望していたのかも思い出せない。
 ただひどい恐怖が、胸の中でざわめいていた。
 落ち着くにつれて、徐々に蘇ってくる夢の記憶。なんてこった。舌打ちが漏れた。過去の記憶に似ているけれど、あんな甘ったれた自分にはたとえば自分でなくとも腹が立つのに、苛立ちはどこへもぶつけようがない。何かに傷ついていたことはたしかに焦燥とともに思い出せる。けれどそれは、こうして起きてしまえばとるに足らないようなことなのだ。
 無意識下でも、夢の中の話でも、あんな自分は認めがたいほどだった。何かに勝手に期待して何かに勝手に絶望していた。阿呆だ。
 苛立ちに起き上がる。
 クイーンサイズのベッドの隣で牛尾が安らかな寝息を立てていた。長い睫が重なり、小さく口が開いている。見下ろして、自分がひどく和らいでいくのがわかった。傍らの体温は暖かく心地よい。
 安らぎを求めて手をかけ布団から出し、牛尾へ伸ばす。セットされていない、さらりと枕に流れる髪を1房摘んだ。
「ん……」
 牛尾の瞼が震えて、ゆっくりと開く。
 手を離して、苦笑した。
「わッりい。寝てろよ」
「どうか、したのかい」
 火傷の痕に引き攣れる手が、獅子川の右手首を掴んだ。やんわりと、左手で掴み返す。何度も瞬くみどりいろ。
 知らぬ間に微笑んでいた。
「何も。オッレももう寝る」
「そう……」
 すうと、灯りが消えるように牛尾が目を閉じた。
 小さく息をつき、獅子川もやわらかすぎるベッドに身を横たえ布団にもぐりなおす。重い瞼を下ろした。
 夢など見ずに、朝を迎えたい。