「おっはよーございまーす!」
「……朝ッぱらから元気だな、テッメエは」
 牛尾に付き合わされて朝練習の始まる一時間前には到着していた獅子川は、今日も今日とて集団で団子のように丸まって現われた1年生の群れから、外れて走ってきた猿野に呆れた目つきを投げかけた。
 置いてけぼりの形にされたほかの1年生たちが、「おはようございます!」と遠くで頭を下げている。それに「はよッス」と軽く手をあげて答え、猿野を眺めた。
「? なんスか?」
 意味ありげな視線に、猿野が首を傾げる。それを見ながら獅子川は昨夜牛尾が取り出した小瓶を思い出した。
 中和剤だ。
 訪れたときの殴って怒鳴った挙句のやり取りの末、牛尾が別室から持ってこさせた。少なくとも、ラベリング効果による症状は見られなかったから、というのが何故使わなかったと詰め寄る獅子川に返した牛尾の言い分だ。もしかしたら薬の影響すらないところにまた薬を使って、おかしな効果でも出たらたまらないだろう。
 確かに、と納得した獅子川は今日の猿野の様子を見て使うべきかそうでないか判断しようと思っていた。
 中和剤は牛尾がロッカーに保管しているはずだ。
 けれどやはり、獅子川が観察で猿野に異常があるようには見えない。ともかく子津に対して顔を赤らめべったり離れないという状況でないことにほっとした。
 この分ならたしかに心配はないかもしれない。
 不思議そうに見上げてくる猿野を軽く額を小突いて、「なッんでもねえよ、着替えて来い」と顎で促す。対応にぶつくさ不満げに言ってから、猿野が群れに戻っていった。騒ぎながら部室に向かって楽しげに1年生たちが移動していく。
 猿野は子津の隣に並んでいた。
 そのくらいならいつものことだ。ぼんやりと旅の癖で草を口に銜えながら思う。
 猿野がボケるのに犬飼が乗り他の、獅子川が名前も覚えていない1年生が便乗し、子津がツッコみ辰羅川が呆れて司馬や兎丸が笑う。いつもの風景だった。
 いや、と獅子川は思いなおす。
 少しばかり猿野の子津への接触が多い。今も明美のなりをして「子津きゅうん、犬飼きゅんがつれないの〜」とその背に泣きついていた。ため息をついた子津にさらにしなだれかかる。その気色の悪さに他は大騒ぎで、あることないこと犬飼との関係を捏造させて嘆く明美に手ひどいツッコミが入るときも遠くないだろう。
 何かというと、子津、子津と今日の猿野は子津に親しい……というか、第三者から見れば『懐いて』いる。なるほど、薬の効果とはこういうことか。百聞は一見に如かず。
 よくわかっていなかった『好意的に素直になる』という事象に納得する。
 まあ、なんにせよこのくらいなら問題はないだろう。少なくとも、明後日には代謝されるという話であるし。牛尾の言うとおり、下手に薬を使うほうがこわい。
 踵を返そうとした獅子川は
「兄ちゃん今日なんかさー、すごく子津くんのこと好きだね?」
 甲高い声が不満げに言葉を綴るのに、ぎくりと動きを止めた。
「子津くんにべったりじゃん。つまんないー」
 肩越しの景色の中、そう軽く兎丸が頬を膨らませている。
(あッちゃー)
 あまりのことに、獅子川は天を仰ぎ額を抑えた。
 当事者たち以外が、異常に気付いているとは。これはもうだめだ、とりあえず、この場から猿野を連れ出そう。身体の向きを変えて騒ぎの渦中を見やった、途端。

 激しい後悔が、獅子川の喉下にせりあがった。

 兎丸の言葉に狼狽する猿野にではない。
 その隣に立つ子津が見たこともないような照れくさそうな顔で、困ったように笑っていたのだ。
 それはただの満面の笑みよりもずっと、嬉しげで。
(どッうして、あいつはあッんなに嬉しそうなッんだ?)
 浮かんだ問いに、答えはすぐ浮かぶ。
 それに根拠も何もないのに、自分の答えが重ねた想像の惨さに獅子川はそれ以外に考えられなくなった。そうであったときに、酷すぎると、思わず口元を抑える。
(子津は、きッと、ずッと、猿野を)
 自分たちに気付かれないほど、ひそやかに。用心深く、押し込めながら。
 だからあんなに嬉しそうなのだ。
 手に入らないはずの思い、他人を押しのけることも恐ろしくて出来ない。それで全てを失ったら耐えられない。自分だけを見ろと、自分の傍にいろと、一方的な思いが言えるはずもない。
 そうやって願うことすら出来なかったのに、なのに、思うことを許されるどころか、とつぜん手に飛び込んできた好意。
 薬のせいだとわかっていても、あまりにも、あまりにも程度が巧妙なのだ。自然に触れられる手、無理に呼ばれることはなくとも、選択肢に入れば必ず選ばれる自分。ほんとうにもしかしたら、薬のせいでなくて、ほんとうに? そう疑問に思ってしまいそうなほどに、違和感なく向けられる好意。
 当たり前だ、それはそもそも、猿野自身にあったものなのだから。
 けれど違う、それを素直に表現する猿野自体は、薬によるまやかしなのだ。好意自体は本物でも、他を押しのけてまでそれを向ける態度は薬の効果だ。
 それでも、哀れな恋心は薬の効果の偽りに押し出されて、示される好意を真実と信じてしまいそうにもがいている。
 ほんの少しの仕草、好意、それはもしかしたらほんとうに『特別』なものでないかと、違うとわかっているのに、それでも、それでも小さな可能性に縋って何度も疑ってしまうのが、恋の、その性、そのものだというのに。
 なのに、こんな。なんて巧妙に!
 青褪めた顔で、獅子川は背を振り返り、誰かを探して目をゆるがせた。
 ひとつ間違えば倒れてしまいそうなな足取りで一歩踏み出し、一瞬前までの仕草が嘘のように走り出す。
 1年生たちと遭遇したロータリーと目指す部室は校舎を挟んで離れている。その高さをいっそ、飛び越えてしまいたい。乱暴な思いが、胸の中を駆けずり回っていた。
 ――運命の女神を見たことがある。南米の小国での話だ。鉛色に輝き、100年も前から、滝の水をその肩へ受けていた。
 強く地面を踏みしめ、蹴り飛ばしながら、獅子川はいつかの旅を思い出す。
 ――それは優しげでありながら、触れてみれば冷たかった。乳房を撫でても、眉1つ顰めなかった。
 校舎から出てきたマネージャーたちが、獅子川の形相に、風に髪を抑えながら呼び止める。速度でそれを振り払った。
 ――女神は眷属を従える。人を運命に飲み込むために。
 部室のドアノブを、乱暴に捻る。中には、1人だけしかいないはずだ。……即ち。
 ――眷属はきっと、あの女神のように恐ろしいほどに美しい顔立ちで、優しく振る舞い、
「誰だい?」
 凄まじい音を立てて開いた扉に、ベンチに座って書き物をしていた牛尾が立ち上がった。
 ――そのたおやかな指先で無慈悲をするに、違いない。
 息荒く、扉を開けて動かない獅子川を怪訝そうな顔で牛尾が覗き込む。
「獅子川くん……?」