「どうしたんだい、何か、あったのかい?」
 扉に突いて身体を支えていた手が滑り、ゆらいだ背を支えようと伸ばされた手を……思わず、振り払った。
 驚いた顔を睨めつける。それでも、泣きそうだと知れることは自覚していた。
「なん……ッ、なんでテメーは……ッ」
 それ以上見詰め合ってはいられず、視線を落とす。汚い、部室のタイル。自分の荒い息遣いだけが、耳につく。
 落ち着こうと思っても、思ったその心すら激情に流される。源にあるのは、昨夜の、
『面白そうだったから』
 言い放った、牛尾の笑み。
「面白いとか、そんなんでひッとの心をよ……ッ」
 頭の隅に、何かが引っかかった。面白いで傷ついたのは、違う、子津だけでなく、自分も何か。傷ついたとはいえない、自業自得の。けれど惨さに破られた理性は、怒声を止めきれず、怒りはいっしょくたになって迸る。
「知ッてただろ、てめえはッ! 子津が、子津がさッるのをどう思ッてッかよッ」
 胸倉を掴み上げて問う。
 ……牛尾が子津の心情を理解していたことに、根拠はなかった。けれど、獅子川は確信する。
「知ッてて、惚れ薬だなんざほざいてたのか、てめーはッッ! 嘘で好かれて、子津がどう思うか、考えたかよッ?」
 掴んだ襟を揺さぶって怒鳴った。牛尾は俯き、その目は陰になって見えない。それがさらに獅子川の怒りを助長した。
「どうして、すぐ中和剤を渡してやッんなかッたッ! 猿野にバカなことを言ッた! どーッなんだッ! 答えろッ」
「……く、は」
 俯いたまま、そう、呟くように、牛尾は
「……ぼくだったら」
 皮手袋の手が襟首を掴む獅子川の手に重なった。聞き取りにくい、ぼそぼそとした声は続く。
「……ぼくは、たとえ、嘘でも……」

 君に、好きになってもらったら、嬉しかった、から。

「……だか、ら」
 言葉が途切れても、牛尾は顔を上げない。
 呆然と獅子川はそれを聞いていた。いいわけともつかぬ、けれど、真実だろうそれを。
 何度も何度も、鼓膜を震わせたそれを言葉にしなおし、頭の中で復唱し、咀嚼して。
「――ッ」
 のどの、奥で、叫んだ。助けを求めて。どうしようもない、間違いの。
 牛尾と自分はあまりにも違いすぎて、その違いに、自分には劣等感がありすぎて。
 牛尾を理解することを、諦めていた。してはいけなかったのに。こんな弱い男を(そうでなくとも)、理解できないで突き放してはいけないと、何度も、何度も身に沁みていたはずなのに。
 記憶から零れ出る。夜半の悪夢、情けない自分。
『おもしろいから』
 牛尾がああ微笑ったのは、現実の記録だ。
 もてあます衝動にどうしたらいいかわからなくなった自分が、奴当たるのに、それでも手を伸ばしてくる牛尾に、何故だと泣き喚いたときの答えだ。何度も尋ねて、何度も、微笑んで牛尾はそう答えた。
 その意味を、獅子川が理解するまで。
 きっと、昔から、自分に会う前から、ずっとそうだったのだ。
 獅子川に対する恋情も、後輩に対する共感も、自覚できないうちは『おもしろいから』で片付けてしまうほど、牛尾は自分を知らなかった。
 それを、知っていた。気付いていた。気付いたときには、呆れて、けれどそんな不器用さをとても愛しく……。
 それなのに! それなのに、どうして、忘れて、言葉どおりに受け取った? それを責めた?

 馬鹿は、誰より自分だ!

「……ッ」
 掴み上げていた手は緩み、重なる牛尾の手を握った。
 おそるおそる、牛尾が獅子川を見上げる。
「獅子川くん……?」
 こんなに、怯えている。自分が一方的に責めたから。
「悪ぃ、牛尾……」
 馬鹿は自分だ。どんなに、殴ったって、足りない大馬鹿者だ。馬に轢かれてしまいたい。
「悪ぃ……」
「獅子川くん?」
 苦しげな顔で謝罪を繰返す獅子川の背に、牛尾が手をやった、そのとき。
「……キャプテン、獅子川先輩」
 扉が開いて、子津が、顔を出した。