なほ
うらめしき

――もう会えないわけじゃなくても、帰り際に別れるのが、さみしかった
「僕だよー、兎丸。入っていーい?」
 扉を叩くと、おー、と返事が返ってきた。遠慮なくあけてしまう。
 扉から入ってすぐの和室には既に布団が敷かれていて暗い。奥の窓際のフローリングの上に机を挟んで1人かけのソファ2つが置いてある空間だけが、オレンジ色の優しい光を伴って明るかった。
 ちょい、と一番入り口側に敷いてある布団を指差して
「踏むなよ」
 と雑誌を手に、長い足をもてあますように組んで窓際の藤椅子に座っていた御柳くんが言った。その指がさし示す、膨らんでいる掛け布団のしたには、犬飼くんがもう寝てしまっているんだろう。
 枕元を迂回して、御柳くんのフローリングと畳の境に立つ。隈取の落ちた目は僕にあんまり注意を向けずに、机の上の缶コーヒーを時折口に運びながら雑誌を読んでいる。
 立ったまま、動かず黙っている僕に御柳くんが不思議そうに首を傾げて
「なんだよ、さっき会ったばっかじゃん。なんかあったんか?」
「ごめんなさい」
 僕はまず、頭を下げた。
「はあ?」
 胡乱な目で、御柳くんが僕を見る。軽く、首を振ってみせる。
「御柳くんにも謝らなくちゃだけど、いまは御柳くんにじゃないよ。御柳くんの後ろの人に」
「て……」
 怒鳴りかけた声を、犬飼くんを見やった御柳くんは口を抑えて潜めた。
「……てっめえ、まだそんなこと言ってんのかよ」
「いきなり嫌われたら、悲しくない?」
「なんだって?」
「幽霊も悲しいんだって。普通の人と、僕らと一緒なんだよ。だから、無闇に嫌いになっちゃ駄目だって」
「なんだよ、それ……」
 瞠った目を、そらすように伏せて、すこし御柳くんが黙った。
「……沖が、そう言ったんか?」
 頷くと、また何かを考えているみたいに御柳くんは折った人差し指の第一関節を顎に添えて、俯いてしまった。何を考えてるんだろう。たぶん、僕が沖くんに言われたときに考えたのとは、ちょっと別のことだ。
 バカにされてしまうか、邪険に扱われるかだと思っていたから、ちょっと意外だった。
「……そういうことも、あるんかな。死んでる人間と、生きてる人間って変わんねえんかな」
「わかんない。でももしあったら、悪いことしたなって思ったから、謝りに来たんだ」
 御柳くんの返事は無くて、部屋は静かになってしまった。ばちん……ばちん……という音に顔を上げると、天井の灯りに甲虫がしきりにぶつかっている。
 自分の両手を背中で繋いで、一緒に黙ると、訊きたいことがあるのを思い出した。僕自身、その考えを唐突だなあとは思ったけど、2人で黙り込んでしまった話題を変えてしまいたいのもあるし、あんまりにも訊きたかったから、口を開いた。
「……ね」
 御柳くんは長い指で雑誌のページ端を弄んでいる。
「御柳くんたちって、どうして卒業したら3人で暮らそうと思ったの? 御柳くんも、犬飼くんもプロになるんでしょう? 一緒のチームだったらいいけど、違ったら、うんと遠くのチームだったら、一緒に住めないでしょう?」
 一緒にいられないかもしれないのに(というか、おそらく一緒にいられない。たぶん、誰かが犠牲にならなければ)、どうして、3人で暮らすなんて話をしているのか。すごくすごく、気になってた。
 何故だか、自分でわかってる。
 御柳くんたちの言う未来が、しっかりした、きちんと今に続いているいつかの話だって、信じたかったからだ。
 彼らの語る未来は直接は関係のないはずの僕にも幸せそうに見えた。知ってしまうとそれがない未来はあんまりにも物足りない。完璧とすら思えるほどの、綺麗な将来が嘘になってしまうかもしれない、その落とし穴を潰したくて、しつこくても、尋ねてしまう。
 もしもちょっとばかり真剣な冗談のつもりだったなら、初めっからそう聞きたい。
「……ん」
 惑うように、御柳くんはぼやいた。その指先が机の上においたコーヒーはきっと冷たいのだろう。飲みたいわけじゃないけれど、茶色いパッケージからはみ出た、オレンジ色の光を反射させる銀を、話の最中ずっと眺めていた。
「なんつうか……」
 言いよどんでいるように……ばちん、ばちん、甲虫はまだぶつかっている……間は長い。
「場所、がいいんだよ」
「場所?」
 人差し指の先が缶の飲み口を叩く。
「一緒にいられるとこっつうか」
 丸いマグネットをホワイトボードに貼り付けるみたいに、ぽつぽつ、言葉は紡がれて、僕はそれを追いかける。
「泊まりとか、するだろ。でもそれは、誰かん家で、つまり、そのほかのやつの家じゃないじゃん、じゃなくて」
 そういうんじゃなくて、と御柳くんはもどかしく重ねる。
「オレらみんなの、家があったら、いいんじゃねえの、って」
「みんなの?」
「誰か一人だけの家じゃなくて、オレらみんな、いてもとうぜんな、家」
「みんなの、いえ……」
 ああ、わかった。と思った。間違いかもしれないけど心より深いところが、わかった、ってつぶやいた。
 いつでも一緒にいられることが、彼らの問題じゃないんだと、わかった。
「……笑うか?」
 大げさなくらい、首を振った。
 たしかにずっと一緒にはいられないのかもしれなくて、でも、けれど、それでもいいから、彼らは彼らの、彼ら3人ともの『場所』が欲しいんだ。3人とも、誰にも気兼ねしないで、のんびり出来る、どこか。あたたかいところ。さみしくないところ。
 たくさんの人が持っていて、持っていることにすら気付かないところ。それがほしくて、御柳くんがやさしく笑う。
 鼻の奥がつんと痛んだ。
 この橙色の光の中で、その話をする御柳くんがあまりに穏やか過ぎるからだ。まるで手に入らなかったものをやっと手に入れた、切ないまでに幸せな人みたいに見えるからだ。
 それは錯覚に過ぎないのに、勝手なその想像にまたすこし、瞼が熱くなった。
「引越しには呼んでよ、手伝ってあげるからさ」
 でもこの気持ちは大きすぎて、伝えるには重すぎて、冗談混じらせて、わざとらしい笑い声と重ねないと外に出せない。
「へえ? でもなあ、お前ら呼ぶと高くつきそうだかんな」
 御柳くんが、楽しそうに、やっぱりちょっとだけ嘘っぽく、笑う。僕はさらに笑い声を上げた。
「引越し蕎麦はとうぜんとして、おすしは僕、上よりうえじゃないとたべないかんね」
「わ、何言ってんだよお前、ふざけんじゃねっつの」
「僕なんか安いほうだよ。兄ちゃんなんかー……」
 どの話を持ち出そう、と暗い、斜め上の和室の照明を見上げたところでその端っこに繋がってる扉が開いた。明るく白い光が扉の形に零れだしてくる。犬飼くんの布団の上に溢れた光の絵の具には、宿に備え付けられた浴衣を着た人影のかたちに穴が開いていた。
「兎丸くん……?」
 軽く足を引きずりながら、ドアを閉めて辰羅川くんは首を傾げる。
「お帰りなさい」
「おけーり」
 夏大会後、けれど選抜前ぎりぎりに子供を庇って事故に遭い、軽く足に怪我を負った彼はそれが完治しない今控えのような形で合宿に参加している。本来そのマネージャーに任せる仕事もむさくるしい男所帯では、何時の間にか彼の管轄になっていて、スポーツドリンクなんかを用意してくれる様子はだいぶ見慣れてきたものだった。
 けれど、はやく怪我が治って合宿に選手として参加することを辰羅川くんは望んでいるだろうし、僕らも待っている。三回戦には参加できるということだから、彼をホームに座らせてあげられるかどうかは、僕ら次第だった。
 怪我人だっていうのに、辰羅川くんは今日も事務業務で忙しかったのだろう。こんな夜に、お風呂に入っていたらしい。
「話し声がしますから、誰かと思いましたよ。犬飼くんは寝てらっしゃるはずですし」
「へへ、驚いた?」
「少しばかり」
 苦笑を漏らしながら、辰羅川くんが僕の横に立った。そのリズムにながれたように、僕は戸を振り向く。
「じゃあ、僕もう寝るかんね」
 辰羅川くんの、脇を抜けた。
「そうなん?」
「おや、もうよろしいので?」
 2人が尋ねてくれるのに、頷いてドアに向かう。
 廊下の手前で振り返って、同居をする話をするたびに御柳くんがすごく嬉しそうなのを持ち出して、からかってしまおうかと思ったけれど、そんな風に言葉にしてしまうには、御柳くんのあの笑顔はあまりにもったいなく思えてしまった。
 ドアノブを握りながら、手を振るだけにする。
「おやすみ」
 2人も振り返してくれて、それぞれのおやすみを聞きながら後ろ手にドアを閉めた。
 部屋に帰ったら司馬くんに、今日のことをどう話そう。話す内容も話すことも、楽しくて嬉しい気持ちばかりがあって、僕はにこにこしながら部屋へ歩く。