うつ
りに
けりな
いたづらに
――花が色褪せる様に、心まで褪せるものでしょうか?
『2年C組、兎丸比乃くん、兎丸比乃くん、笹倉先生がお呼びです、至急職員室にお越しください、兎丸比乃くん、兎丸比乃くん……』
「あ」
「え」
「げ」
呻いた僕に、お昼ご飯真っ最中の屋上の視線は集まっている。暑いんだか寒いんだか、脱いだ学ランを肩にかけてお弁当のあとの菓子パンを齧っている兄ちゃんがにやにや顔でこっちを見た。
「おお〜い、何したよ兎丸くん? 覗きかね? ストーキングかね? それともそのちっちゃい体を生かして盗撮カメラにでもなったかね?」
「なれるわけないよ……ってわ゛〜〜、あからさまな犯罪行為来ちゃった〜〜!」
頭にカメラの形のはりぼてを被り、なぜか下半身が裸な兄ちゃんを
「変態め、成敗じゃ、鬨の声を上げろ〜〜!」
明神くんたちがボコすのを尻目に
「どしたの、兎丸?」
と花崎くんが首を傾げてくる。
答える唇を尖らせてしまう。
「たぶん進路調査書……すっかり出すの忘れてた」
「笹倉先生、そういうの結構五月蝿いっすよ。はやく行った方がいいっす」
言われるまでもなく、それは重々承知してる。お説教を覚悟した重い足取りで僕は立ちあがった。
「司馬く〜ん。僕授業に間に合わないかもしんないから、先戻っちゃってていいかんね」
コーヒー牛乳のストローを口元から離さないまま見送りに手を振ってくれる犬飼くんの隣で、司馬くんがお箸を持ったままこくこくと頷く。牛尾先輩の卒業間際のお説教でお昼ごはんのカロリーメイトをやめた司馬くんは、お昼の時間が伸びていてチャイムぎりぎりまでたべているのもざらだった。でも今日は早いかもしれない。残すところ、玉子焼き二切れだ。
「いってきまーす」
からかいや激励や、そういうものを全部げんなりした顔をつくって振った手で返し、屋上から4階に続く階段を降りる。
まだまだ涼しいとも言えないけれどだんだんと冬に近づいてきた太陽の光は着実に強くなってるみたいで、日の届かない暗い校舎の中での視界に浮かぶ残像にくらりとした。手すりを撫でながら、段を降りる。
2階に下りて北階段に向かう途中に職員室はある。会議室の横の扉を、「失礼します」と言いながら引いた。
二年担任の先生たちの机の方へ目を向けると、辰羅川くんが彼の担任の先生の机の前に立っているのが見えた。
あれ? と思ったけど、ふ、と辰羅川くんが夏休み中に子供を庇って事故に遭ったことを思い出す。長期休み中に負った怪我は、何か書類を出さなくちゃいけなかったはずだから、きっとその関係だろう。甲子園遠征中の出来事でもあるし。
思わずそちらに目を向けながら歩いていると
「来ましたか」
と笹倉先生が、キャスター式の椅子をくるりと回して、机越しに僕を見やった。視線が痛い。
「ごめんなさ〜い」
先手必勝とばかりに、前に立って開口一番にそう頭を下げた。ため息が後頭部越しに聞こえる。
「わかっているならいいのですが……明日には必ず提出するように」
いきなり謝ったのが効いたのか、語調は想像していたより全然穏やかだ。
「は〜い」
調子に乗って続ける。
「でも、実は……用紙……なくしちゃって……」
「……仕方ありませんね」
あんまり怒られずに、用紙を出してもらえそうなのもラッキーだった。
たぶん、特別な紙だからだろう。机にあるかと思いきや、立ち上がった先生は書類とかがまとまっているキャスターに向かっている。
それをぼーっとしながら待つ。
周りの声が、聞くともなしに聞こえてきた。
「そうかあ……」
書類を片手に唸った、辰羅川くんと向かい合っているE組の先生が、シャーペンの頭で自分の髪を掻き混ぜている。
「どうしても、T大の方じゃ駄目なのか? この間までは、そう言っていただろう」
どうも、怪我の話じゃないらしかった。予想外のことに、僕は悪いことながら耳がそちらに向いてしまう。
「もう、決めたことですので」
辰羅川くんの声が、1年生のはじめみたいに、冷たかった。
「まあ……確かにお前が決めたなら仕方ないな」
「ありがとうございます」
伏せた目線で、辰羅川くんが頭を下げる。
「京都か。遠いな。犬飼がさびしがるだろうに」
「仕方ないでしょう」
ぽつんと、水溜りの中に落ちた雨のような言葉だった。
「ずっと一緒に、いられるわけがないんですから」
先生へ向く眼鏡の奥は、お昼の陽射しに反射して、見えない。
「辰羅川くん?」
何も考えてなかった。
肩を掴んだ手に、驚いた顔が振り返る。
「ねえ、それ、どういうこと? 辰羅川くん」
「と、兎丸く……」
「おい、兎丸。どうしたんだ。今は辰羅川は先生と話を……」
「3人で、暮らすんじゃなかったの」
そのとき、僕はどんな顔をしていたんだろう。
辰羅川くんが目を瞠って、空気を飲み込む。けれどすぐに気を取り直したように、瞬いた。
「どうして、それを」
何度も瞬いているけれど、乾いている、みどりがかった黒。
「御柳くんから聞いたの。ねえ、どういうこと、それ」
乾いた喉の奥が痛い。泣き出す直前みたいに。まだ泣くわけにはいかなかった。聞かなくちゃいけなかった。
「辰羅川くんが、言ったんでしょ? 3人で暮らそうって」
聞かなくちゃいけないけれど、訊きたくない。
「い、」
心に忠実な喉の邪魔を、振り切る。
「いなくなっちゃう、の?」
気まずげに辰羅川くんが俯いた。
「……ずっと、一緒にはいられないんですよ、誰だって」
その言葉は、ずうっと先まで、潰した。ただ「いなくなる」という答えよりも雄弁に、僕にそれを教えてくれた。
3人暮らしは、幻でしかないんだって。
屋上から校舎に入ったときの、網膜に張り付いてきた陰がいっせいに辰羅川くんを覆ったみたいだった。これは、誰? こんなこと言うの、辰羅川くんじゃない。ほんとうの辰羅川くんはどこ? わかってる、じつは、わかってる。
ほんとうの辰羅川くんはここにいる。あんなに切なく求められていた未来を台無しに、そこに立っている。
自分で掴んだくせに肩を振り払って、辰羅川くんから逃げ出した。北向きの廊下は暗かった。階段は遠く、早く逃げたいのに、あんまりにもこの距離は長い。
逃げ出し続けて、走り続け、屋上を目指した。助けてほしかった。助けてくれる人を、探してた。かなしすぎて、息も出来ないぐらいに苦しかった。
涙が滲んで、視界がぼやけている。四階と屋上の間で誰かにぶつかる。頭から落ちそうになるのを腕を掴んで引き止められた。誰だろう、と思ったけど、声が間違いようもなく、人を僕に知らせる。
「スバガキ?」
兄ちゃんだ、兄ちゃんの声だ。ただでさえぎりぎりで睫の上に留まっていた涙が、ぶわりと溢れて頬を零れる。
「とま、る……?」
それに、司馬くんの声がしたんだ。しゃっくりに邪魔されて何も喋れなくて、無言のまま俯いて涙を拭う僕の顔を心配そうに、覗きこんでくれる気配がしたんだ。
もうだめだった。それは止めだった。悲しいところに手を差し伸べられて、泣き声も涙も言葉を遮り、あとからあとから滲んで止まらなかった。
「あ」
「え」
「げ」
呻いた僕に、お昼ご飯真っ最中の屋上の視線は集まっている。暑いんだか寒いんだか、脱いだ学ランを肩にかけてお弁当のあとの菓子パンを齧っている兄ちゃんがにやにや顔でこっちを見た。
「おお〜い、何したよ兎丸くん? 覗きかね? ストーキングかね? それともそのちっちゃい体を生かして盗撮カメラにでもなったかね?」
「なれるわけないよ……ってわ゛〜〜、あからさまな犯罪行為来ちゃった〜〜!」
頭にカメラの形のはりぼてを被り、なぜか下半身が裸な兄ちゃんを
「変態め、成敗じゃ、鬨の声を上げろ〜〜!」
明神くんたちがボコすのを尻目に
「どしたの、兎丸?」
と花崎くんが首を傾げてくる。
答える唇を尖らせてしまう。
「たぶん進路調査書……すっかり出すの忘れてた」
「笹倉先生、そういうの結構五月蝿いっすよ。はやく行った方がいいっす」
言われるまでもなく、それは重々承知してる。お説教を覚悟した重い足取りで僕は立ちあがった。
「司馬く〜ん。僕授業に間に合わないかもしんないから、先戻っちゃってていいかんね」
コーヒー牛乳のストローを口元から離さないまま見送りに手を振ってくれる犬飼くんの隣で、司馬くんがお箸を持ったままこくこくと頷く。牛尾先輩の卒業間際のお説教でお昼ごはんのカロリーメイトをやめた司馬くんは、お昼の時間が伸びていてチャイムぎりぎりまでたべているのもざらだった。でも今日は早いかもしれない。残すところ、玉子焼き二切れだ。
「いってきまーす」
からかいや激励や、そういうものを全部げんなりした顔をつくって振った手で返し、屋上から4階に続く階段を降りる。
まだまだ涼しいとも言えないけれどだんだんと冬に近づいてきた太陽の光は着実に強くなってるみたいで、日の届かない暗い校舎の中での視界に浮かぶ残像にくらりとした。手すりを撫でながら、段を降りる。
2階に下りて北階段に向かう途中に職員室はある。会議室の横の扉を、「失礼します」と言いながら引いた。
二年担任の先生たちの机の方へ目を向けると、辰羅川くんが彼の担任の先生の机の前に立っているのが見えた。
あれ? と思ったけど、ふ、と辰羅川くんが夏休み中に子供を庇って事故に遭ったことを思い出す。長期休み中に負った怪我は、何か書類を出さなくちゃいけなかったはずだから、きっとその関係だろう。甲子園遠征中の出来事でもあるし。
思わずそちらに目を向けながら歩いていると
「来ましたか」
と笹倉先生が、キャスター式の椅子をくるりと回して、机越しに僕を見やった。視線が痛い。
「ごめんなさ〜い」
先手必勝とばかりに、前に立って開口一番にそう頭を下げた。ため息が後頭部越しに聞こえる。
「わかっているならいいのですが……明日には必ず提出するように」
いきなり謝ったのが効いたのか、語調は想像していたより全然穏やかだ。
「は〜い」
調子に乗って続ける。
「でも、実は……用紙……なくしちゃって……」
「……仕方ありませんね」
あんまり怒られずに、用紙を出してもらえそうなのもラッキーだった。
たぶん、特別な紙だからだろう。机にあるかと思いきや、立ち上がった先生は書類とかがまとまっているキャスターに向かっている。
それをぼーっとしながら待つ。
周りの声が、聞くともなしに聞こえてきた。
「そうかあ……」
書類を片手に唸った、辰羅川くんと向かい合っているE組の先生が、シャーペンの頭で自分の髪を掻き混ぜている。
「どうしても、T大の方じゃ駄目なのか? この間までは、そう言っていただろう」
どうも、怪我の話じゃないらしかった。予想外のことに、僕は悪いことながら耳がそちらに向いてしまう。
「もう、決めたことですので」
辰羅川くんの声が、1年生のはじめみたいに、冷たかった。
「まあ……確かにお前が決めたなら仕方ないな」
「ありがとうございます」
伏せた目線で、辰羅川くんが頭を下げる。
「京都か。遠いな。犬飼がさびしがるだろうに」
「仕方ないでしょう」
ぽつんと、水溜りの中に落ちた雨のような言葉だった。
「ずっと一緒に、いられるわけがないんですから」
先生へ向く眼鏡の奥は、お昼の陽射しに反射して、見えない。
「辰羅川くん?」
何も考えてなかった。
肩を掴んだ手に、驚いた顔が振り返る。
「ねえ、それ、どういうこと? 辰羅川くん」
「と、兎丸く……」
「おい、兎丸。どうしたんだ。今は辰羅川は先生と話を……」
「3人で、暮らすんじゃなかったの」
そのとき、僕はどんな顔をしていたんだろう。
辰羅川くんが目を瞠って、空気を飲み込む。けれどすぐに気を取り直したように、瞬いた。
「どうして、それを」
何度も瞬いているけれど、乾いている、みどりがかった黒。
「御柳くんから聞いたの。ねえ、どういうこと、それ」
乾いた喉の奥が痛い。泣き出す直前みたいに。まだ泣くわけにはいかなかった。聞かなくちゃいけなかった。
「辰羅川くんが、言ったんでしょ? 3人で暮らそうって」
聞かなくちゃいけないけれど、訊きたくない。
「い、」
心に忠実な喉の邪魔を、振り切る。
「いなくなっちゃう、の?」
気まずげに辰羅川くんが俯いた。
「……ずっと、一緒にはいられないんですよ、誰だって」
その言葉は、ずうっと先まで、潰した。ただ「いなくなる」という答えよりも雄弁に、僕にそれを教えてくれた。
3人暮らしは、幻でしかないんだって。
屋上から校舎に入ったときの、網膜に張り付いてきた陰がいっせいに辰羅川くんを覆ったみたいだった。これは、誰? こんなこと言うの、辰羅川くんじゃない。ほんとうの辰羅川くんはどこ? わかってる、じつは、わかってる。
ほんとうの辰羅川くんはここにいる。あんなに切なく求められていた未来を台無しに、そこに立っている。
自分で掴んだくせに肩を振り払って、辰羅川くんから逃げ出した。北向きの廊下は暗かった。階段は遠く、早く逃げたいのに、あんまりにもこの距離は長い。
逃げ出し続けて、走り続け、屋上を目指した。助けてほしかった。助けてくれる人を、探してた。かなしすぎて、息も出来ないぐらいに苦しかった。
涙が滲んで、視界がぼやけている。四階と屋上の間で誰かにぶつかる。頭から落ちそうになるのを腕を掴んで引き止められた。誰だろう、と思ったけど、声が間違いようもなく、人を僕に知らせる。
「スバガキ?」
兄ちゃんだ、兄ちゃんの声だ。ただでさえぎりぎりで睫の上に留まっていた涙が、ぶわりと溢れて頬を零れる。
「とま、る……?」
それに、司馬くんの声がしたんだ。しゃっくりに邪魔されて何も喋れなくて、無言のまま俯いて涙を拭う僕の顔を心配そうに、覗きこんでくれる気配がしたんだ。
もうだめだった。それは止めだった。悲しいところに手を差し伸べられて、泣き声も涙も言葉を遮り、あとからあとから滲んで止まらなかった。