春の
野に
でて

――未来を摘む私の手が、つめたく濡れて
 たぶん犬飼くんが乗っただろう、急行にあと一歩で間に合わなかった。5分後の各駅停車は10分後にくる快速に2駅向こうで抜かされてしまう。結局その快速を待ってから、犬飼くん家がある駅に2人で降りたときにはもちろん、そこに犬飼くんの影も形もなかった。
 1度通りがかったときの、うろ覚えで足を進める。司馬くんも何も言わないから、たぶんこっちで合ってるんだろう。
 ゲーセンなんかでごちゃごちゃしていた通りは段々と閑散になり、何時の間にか二車線に増えて、昼間の今、人通りの少ない道になっていた。小さな酒屋さんの角を右に曲がると、子供の笑い声が聞こえる。保育園があるみたいだ。カラフルな遊具のある園庭は似たような形の家々に囲まれていた。犬飼くんの家も、辰羅川くんの家も、この住宅街にあるはず。
 ここから先は目印もなくて、あてずっぽうに歩き回るしかなかった。
 右へ左へ、勢いで曲がって、歩いてみる。表札からは目を逸らさない。でもこんなんじゃ、すぐ隣の通りに誰かのうちがあってもきっとわからないだろう。
 けれど。
 声が聞こえた。昼間のあかるい住宅街に似合わない、泣きそうな怒鳴り声。
 僕は走り出した。
 声の元は、2つ向こうの通りを北へ向けて少し走ったところにあった。辿りついたときには、司馬くんは置いてきてしまっていた。
 肩で息をつきながら、見上げる。
 叫んでいるのは、御柳くんだ。その後ろに犬飼くんがいる。2人と相対するように立っているのは辰羅川くんで、僕からは背しか見えなかった。
 辰羅川くんはともかく、御柳くんにも犬飼くんにも見えないはずはないのに、2人の視線は僕を向かない。
 ただ辰羅川くんだけを見ている。
 お二人とも、と、信じられないと言いたげなこえで辰羅川くんは呼びかける。
「まさか、学校をサボってこんなところに……私の言えた口ではありませんが、生徒は勉学に勤しむべきですよ。やらずに出来るわけではないでしょう?」
 尋ねる言葉はとっつきどころがなく、冷たい。いつもの優しい口調が使い方次第でこんな壁になるなんて知らなかった。
「んな場合かよ……!」
 ぎり、と御柳くんの奥歯が鳴った。
「京都ってなんだよっ? 説明しろよ!」
 御柳くんは、たぶんもう、辰羅川くんが引越しを隠そうとしていたことを知ってる。犬飼くんはそこまで聞いてたんだろう。その上で説明を求めている。何がなんだかわからなくなった、ぐちゃぐちゃの気持ちで。
 辰羅川くんがため息をつく。本当に、呆れたような。出来ない生徒を蔑むような態度。
「進路の都合ですと、何度申し上げたらわかっていただけるんです?」
 言われた御柳くんは怒鳴るより戸惑っている。聞き違えかと記憶を反芻している。そして、ほんとうに辰羅川くんなのか疑ってる。怖がってる、これがほんとうの辰羅川くんだったらどうしようって。
 僕はわかってる。大丈夫、これは辰羅川くんだって、兄ちゃんも子津くんも司馬くんもいってた。きっと、何か、理由があるんだろうって。間違えちゃいけない。うわべの態度に惑わされちゃいけない。
 だけど、もう1人の僕が、不思議そうに首を傾げる。
 ――ほんとうに? この辰羅川くんが嘘だっていうなら、いままでの辰羅川くんがほんとだって証拠もないんじゃない?
 冷たい距離を目の当たりにしてしまった僕に反論の声は、ない。
「お前、お前……っ」
 呼びかけたまま、御柳くんの言葉は繋がらない。辰羅川くんがあまりにも遠すぎて、きっと投げる言葉が見つからない。
「そうなら、なんであんなこと言ったんだよ!」
 泣きそうな声だった。
「一緒に暮らそうっつったろ?!」
 ちいさく、辰羅川くんが首を傾げる。
「困りましたね」

「本当に信じていたんですか?」

 まるで宇宙語みたいに、不自然に、その言葉は空気を震わせた。
「冗談のつもりだったのですが。大体、よく考えてみてくださいよ。お二人とも同じチームに入るわけがないんですから、普通に考えれば、そんなこと不可能でしょう。あなたがただって、そうやって遠くに行ってしまうんですから、私が行ってしまって悪い道理がありますか?」
 固まったまま、御柳くんは動かない。
「冗談ですと訂正しなかった私も悪いですけれど……ばかげたことを信じているのは、やめてください。もう子供じゃないでしょう」
 そうして、気の無い目で御柳くんの様子を確かめた。御柳くんは動かない。
「……わかっていただけたようですね? それでは、用があるので失礼したいのですが」
 尋ねるというよりは、確認の口調だった。
 辰羅川くんの言葉は見え見えの嘘だ。僕は明神くんに、辰羅川くんは体調不良で帰ったんだって、聞いた。
 ねえ、ほんとは、辰羅川くんも、御柳くんと犬飼くんがその冗談を信じてるって知ってたんじゃないの? だから僕に知られて、嘘をついて早退したんじゃないの?
 2人に問い詰められるのが、鬱陶しくて。
 うやむやのままに、京都に逃げてしまうつもりだったんじゃないの?
「信……っ二! てめえ!」
 顔を真っ赤にした御柳くんが拳を固めて、辰羅川くんに踊りかかる。冷静さを欠いていたんだろう、それはあっさり辰羅川くんに捕まえられた。……単に御柳くんが本気で辰羅川くんを殴れなかっただけかもしれない。
「おやめください、出場停止になるおつもりですか?」
 諌める辰羅川くんの言葉は御柳くんの怒りの理由を、内容を、わざと無視している。あなたが怒っていることなど取るにも足らない。そういわないのが不思議なほどのニュアンスだった。
 御柳くんが今怒ってることは、辰羅川くんにとってなんの価値もない。
「……っ」
 捕まえられた拳を振り払って、御柳くんが辰羅川くんをどつく。2,3歩たたらを踏んだだけの様子を見もせずに、アスファルトを睨みつけたまま
「っああ! 行けよ! どこにでも行け! その面二度と見せんじゃねえぞッ」
 怒鳴った。
 辰羅川くんが頷く。
「ええ、それでは」
 つめたく、言った。やっぱり、御柳くんが怒ってることなんて、なんとも思ってないみたいに。
 けれど、歩く動きの前触れに揺れた足は、一歩斜めを向いただけで止まってしまった。
 犬飼くんが、見ていたからだ。
 御柳くんが顔を逸らしても、犬飼くんは何も言わずに、怒りもせずに、ただ辰羅川くんを見ていたからだ。
 動かなくなった辰羅川くんも、犬飼くんのことを見ているんだろう。しばらく2人は微動だにせず、見詰め合っていた。
 先に目をそらしたのは、たぶん辰羅川くんだった。
「では……」
 今度こそ踵を返そうと、その肩が動く。
「待て、辰」
 けれどそれは呼び止める声にびくりと震えて、こちらを振り返れはしなかった。