アリス、アリス!
にゃんにゃんにゃん、なきにゃんこ。迷子なの?
「やっと、ここまで来たのかよ。遅いぜ」
砂を体から落としていると、きのこの傍で、猫さんの顔がいいました。
「もう、全部手遅れだ」
「え……? なあに、」
「あーあ、かわいそうに。お前の名前、ずっと呼んでたぜ」
にたにたと、楽しそうに笑っています。僕は、伝えられたことの悲しさに気付いて、動けなくなりました。
「もしかして、みかどさん、食べられちゃったの……?」
「かーわいそうに」
猫さんの顔は、笑うだけでした。
僕は耳を塞いで、しゃがみました。なんということでしょう、僕がのろのろしていたせいで、走らなかったせいで、みかどさんは食べられてしまったのです。なんということでしょう、あのきれいでやさしいひとに、ぼくはもう会えないのです。
司馬くんが、僕の肩をひいて立たせながら、猫さんとの間に入りました。
(もう、やめて)
「なんだよ、お前」
(やめ、て。この子は――だよ。やめるんだ)
「なんだよ、邪魔だ、どけよ! オレはそのチビに話があんだ!」
猫さんの顔が、怖く怒鳴ります。
司馬くんは俯き、僕の手を引いて歩き出しました。猫さんをことさらに、まるで、いないものを扱うように、無視して、奥へと進んでいきます。
――――ください。
涙が、囁きました。
おこらないで あげて ください。
びっくりして、周りを見回しました。やはり喋っているのは、涙です。僕のではありません。猫さんのでもありません。震える手で僕をひく、司馬くんが泣いてしまったのでもありません。
猫さんの顔の向こうで、誰のものとも知れずに、涙が落ちているのです。
かなしいの です。 おこらないで あげて ください。
おねがい します。
だあれ?
止まらない、僕の涙が訊きました。
猫さんの顔の向こうに、黒い人があらわれました。夜の中の黒なので、たいそう見えにくいのです。猫さんの目は、一心に僕を睨んでいて、ふしぎな人に気付いた様子もありません。その人の膚は病気の人のように真っ白なのに、ぴったりとした燕尾服を着ているせいで、今にも世界に溶けてしまいそうです。黒縁の眼鏡の向こうで、涙が盛り上がり崩れていきます。
たすけて あげて ください。 かなしい のです。 たすけて あげて ください。 おねがい します。 かなしい のです。 くやしい のです。 たすけて あげて ください。
それはきっと猫さんのことなのに、よほどその人の方が悲しそうです。しずかに、眉と眉の間に皺をよせて、ぽろぽろ涙で喋っています。
僕までもっと悲しくなります。今ですら、もう声もでないほどかなしいのに、そのひとの黙ったままの悲しい気持ちがながれこんできます。ひどいのです。何がひどいのかわからないけれど、ひどいのです。
「こらっ、こっち向け! てめえにそっちに行く資格なんてねえんだ、行くな! オレの話を聞け!」
それに気付くと、怖い顔で大声で怒る猫さんも、どうしても怒っているようには見えなくなりました。
体のない猫さんも、泣いているのです。黒い人が沈黙で泣く代わりに、涙も出せずに怒鳴り声で泣いているのです。
「司馬くん、司馬くん、悪い人じゃないのは、猫さんのこと? 悲しいだけなのは、猫さんなの?」
(かなしいことは、たくさんあるんだ)
「どうしたら、僕は猫さんを助けてあげられるの」
(……君は――だから。それは君の役目じゃないんだよ)
「なあに、それ? そんなにひどいことないよ、こんなに苦しそうなのに、誰が助けてあげられるの?」
(たすけてあげられるひとは、もういないんだよ)
「そんなことない、そんなひどいことってない!」
僕は猫さんに何かしてあげたくて、悲しいことを遠くに放り投げてしまいたくて、近づきました。伸ばした手は、現れた鋭い爪に引っかかれます。赤い血がぽたぽたと湿った土にしみこみました。猫さんの前脚の爪先も、うす赤く染まりました。
それは、猫さんの血のようにも見えました。
「やめて、やめて! そんなことしないで! 泣かなくていいんだ! そんなに苦しい思いしなくていいんだっ」
「うるせえっ、お前に、何がわかるっつうんだ……っ」
「なんにもわかんないよ! だってなんにも言ってくれないじゃん! 何が悲しいって教えてくれないじゃん! 教えてよ、一緒に考えようよ!」
「うるせえ、うるせえ!」
猫さんの顔が消えて、胴体が現れて、しっぽが現れて消えて、かと思えば顔が現れて、胴が消えて、尻尾が出て。めまぐるしく猫さんの身体が点滅します。
「どうせ言ったってお前になんかわかんねえよ! お前だって、いつか、あいつみたいに、あいつみたいに……っ」
全部が現れた猫さんの毛が、悲しげに逆立ちました。
「オレに死ねって言うんだろ!」
顔を覆って、猫さんの後ろの黒い人がいっそう泣き出しました。可哀想な声が上がるのに、猫さんは気付かないようで
「早く! どっかに行け! どこにでも! オレの前から消えろ!」
と泣いています。ひどい。ひどい。僕はそれしか考えられなくなりました。よくわからないのに、世界というのはひどいものだと、それだけがぐるぐる頭を回るのです。息が苦しくなりました。胸が気持ち悪くなりました。早くこんなところから、逃げ出してしまいたくなりました。どうして僕はこんなところにいるのでしょう。こんなひどいところにいるのでしょう。怒鳴られているのでしょう。猫さんは、まだ酷いことを言います。僕なんか死んでしまえといいます。猫さんも、世界も、ひどいのです。
どうして世界というものはこんなにひどいのでしょう?
涙が溢れてきました。喉の奥が痛いです。でも僕は、僕は!
「僕は君に死ねなんて絶対言わない!」
怒鳴り返した僕に、猫さんが驚いて口を噤みました。
「絶対言わない。そんなこと、言わない。約束する」
「だっ、誰がそんなの……っ」
「約束、する」
これは、当たり前のことでした。どうして猫さんが疑うのかもわからないぐらい、僕の中で当たり前のことでした。
「オレはお前に――」
「そんなの、関係ないよ。何があったって、君が僕に何をしたって、僕は絶対にそんなこと言わない。だから教えてよ、何が悲しいの?」
猫さんは、ずうっと、驚いていました。まるで僕が、いきなり外国の言葉をぺらぺらと喋りだしたみたいに。僕の言うことを、驚いた目で、黙って、ずうっと聞いていました。
そして、何も言わずに
「え……?」
すうと、消えてしまいました。ひとつぶだけ、落とした涙を、残して。