困った、と犬飼は思った。右手につかんだ綱の先で、立ち止まった主人にすん、とトリアエズが鼻を鳴らす。
 目の前の信号は既に歩行可能を知らせていた。けれどその向こう。おそらく、バスを待つ客のために設置されたバス停のベンチ。見知った顔が座っている。
 バスを待っているわけではないのは、さきほど一台来たそれを見送ったことから知れていた。誰かを迎えに出たのかもしれないが、どうも途方に暮れているように見える。
 居場所が無い、所在がない、そんな風に受け取れた。
 いまは気付いていないようだが、この横断歩道を渡れば確実に気付かれるだろう。いや、気付かれないとしても、このまま無視していいか悩んでいる。
 犬飼は人付き合いが得手ではない。特に傷ついた人間などどう扱ったらいいのか、考えるだけで混乱するほどだ。
 けれど、相手が相手だった。
 なんとなく、それはトラウマのようなものなのかもしれない。似た顔が傷ついた様相を顕わにしている胸を突くものがある。どうにかしなければならない、と理性でなく、思う。
 ぴす、とまたトリアエズが鳴いた。どうも主人の感情を後押しするようにとれた。犬飼の願望だったのかもしれない。
 既に点滅をはじめた青信号を見ながら、白線を次々に跨ぐ。道路向いているベンチの背に立ち、
「おい」
 猿野が、振り向いた。
 驚いた顔で、犬飼を長い時間見上げている。まるで、普段と見ているものが違うけれど、その中で懸命に数少ない共通点を照らし合わせて認識しているような。
 そして、次に困ったように目を伏せる。
 犬飼としてもどうとも反応のできない、気まずい時だった。
「とりあえず……」
 言ったものの、続かない。
 けれど声に、猿野が顔を上げる。泣きそうな目をしていた。物言わぬ口をわなわなと震わせている。
 ふと、犬飼は気付いた。
「お前、声が出ないのか?」
 びっくりしたように目を瞠り、こくこくと猿野が頷く。犬飼は参った、と何度目かに思った。
 とうとう人の言葉も忘れたか、と罵りのひとつでもくれてやりたいところだが、猿野の反応がさっきから殊勝すぎる。それに言い返しも出来ない相手に常と同じ応酬を望むのは、酷すぎるだろうか。
「風邪でもひいたのか?」
 考えるように、猿野が曲げた人差し指の第一関節を口元に当てる。それが終わったと思ったら、犬飼の手をとり、手のひらを指でなぞった。
 辿る軌跡を感覚で追い、終わったところで、犬飼は呆然と呟く。
「……司馬?」
 猿野の人差し指が、自らを指差す。